書を展《ひら》いて、深くその事を考えていた。その手紙は今少し前、旅館の下女が置いて行った芳子の筆である。
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先生、
まことに、申訳が御座いません。先生の同情ある御恩は決して一生|経《た》っても忘るることでなく、今もそのお心を思うと、涙が滴《こぼ》るるのです。
父母はあの通りです。先生があのように仰《おっ》しゃって下すっても、旧風《むかしふう》の頑固《かたくな》で、私共の心を汲《く》んでくれようとも致しませず、泣いて訴えましたけれど、許してくれません。母の手紙を見れば泣かずにはおられませんけれど、少しは私の心も汲んでくれても好いと思います。恋とはこう苦しいものかと今つくづく思い当りました。先生、私は決心致しました。聖書にも女は親に離れて夫に従うと御座います通り、私は田中に従おうと存じます。
田中は未《いま》だに生活のたつきを得ませず、準備した金は既に尽き、昨年の暮れは、うらぶれの悲しい生活を送ったので御座います。私はもう見ているに忍びません。国からの補助を受けませんでも、私等は私等二人で出来るまでこの世に生きてみようと思います。先生に御心配を懸けるのは、まことに済み
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