雄は心を欺いて、――悲壮なる犠牲と称して、この「恋の温情なる保護者」となった。
備中《びっちゅう》の山中から数通の手紙が来た。
七
その翌年の一月には、時雄は地理の用事で、上武の境なる利根《とね》河畔《かはん》に出張していた。彼は昨年の年末からこの地に来ているので、家のこと――芳子のことが殊《こと》に心配になる。さりとて公務を如何《いかん》ともすることが出来なかった。正月になって二日にちょっと帰京したが、その時は次男が歯を病んで、妻と芳子とが頻《しき》りにそれを介抱していた。妻に聞くと、芳子の恋は更に惑溺《わくでき》の度を加えた様子。大晦日《おおみそか》の晩に、田中が生活のたつきを得ず、下宿に帰ることも出来ずに、終夜運転の電車に一夜を過したということ、余り頻繁《ひんぱん》に二人が往来するので、それをそれとなしに注意して芳子と口争いをしたということ、その他種々のことを聞いた。困ったことだと思った。一晩泊って再び利根の河畔に戻った。
今は五日の夜であった。茫《ぼう》とした空に月が暈《かさ》を帯びて、その光が川の中央にきらきらと金を砕いていた。時雄は机の上に一通の封
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