そうか」
 と言ったが、そのままふいと立って書斎に入って了った。

 その恋人が東京に居ては、仮令《たとい》自分が芳子をその二階に置いて監督しても、時雄は心を安んずる暇はなかった。二人の相逢うことを妨げることは絶対に不可能である。手紙は無論差留めることは出来ぬし、「今日ちょっと田中に寄って参りますから、一時間遅くなります」と公然と断って行くのをどうこう言う訳には行かなかった。またその男が訪問して来るのを非常に不快に思うけれど、今更それを謝絶することも出来なかった。時雄はいつの間にか、この二人からその恋に対しての「温情の保護者」として認められて了った。
 時雄は常に苛々《いらいら》していた。書かなければならぬ原稿が幾種もある。書肆《しょし》からも催促される。金も欲《ほ》しい。けれどどうしても筆を執って文を綴《つづ》るような沈着《おちつ》いた心の状態にはなれなかった。強《し》いて試みてみることがあっても、考が纒《まとま》らない。本を読んでも二|頁《ページ》も続けて読む気になれない。二人の恋の温かさを見る度《たび》に、胸を燃《もや》して、罪もない細君に当り散らして酒を飲んだ。晩餐《ばんさん》
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