に……この上御心配かけては申訳がありませんけれど」と芳子は縋るようにして顔を赧《あから》めた。
「心配せん方が好い、どうかなるよ」
 芳子が出て行った後、時雄は急に険《けわ》しい難かしい顔に成った。「自分に……自分に、この恋の世話が出来るだろうか」と独《ひと》りで胸に反問した。「若い鳥は若い鳥でなくては駄目だ。自分等はもうこの若い鳥を引く美しい羽を持っていない」こう思うと、言うに言われぬ寂しさがひしと胸を襲った。「妻と子――家庭の快楽だと人は言うが、それに何の意味がある。子供の為めに生存している妻は生存の意味があろうが、妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂寞《せきばく》たらざるを得るか」時雄はじっと洋燈《ランプ》を見た。
 机の上にはモウパッサンの「死よりも強し」が開かれてあった。

 二三日|経《た》って後、時雄は例刻に社から帰って火鉢《ひばち》の前に坐ると、細君が小声で、
「今日来てよ」
「誰が」
「二階の……そら芳子さんの好い人」
 細君は笑った。
「そうか……」
「今日一時頃、御免なさいと玄関に来た人があるですから、私が出て見ると、顔の丸い、絣《かすり》の羽織を着た、
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