思った。続いてまだその人を恋せぬ前のこと、須磨の海水浴、故郷の山の中の月、病気にならぬ以前、殊《こと》にその時の煩悶《はんもん》を考えると、頬《ほお》がおのずから赧《あか》くなった。
 空想から空想、その空想はいつか長い手紙となって京都に行った。京都からも殆《ほとん》ど隔日のように厚い厚い封書が届いた。書いても書いても尽くされぬ二人の情――余りその文通の頻繁《ひんぱん》なのに時雄は芳子の不在を窺《うかが》って、監督という口実の下にその良心を抑えて、こっそり机の抽出《ひきだし》やら文箱《ふばこ》やらをさがした。捜し出した二三通の男の手紙を走り読みに読んだ。
 恋人のするような甘ったるい言葉は到る処に満ちていた。けれど時雄はそれ以上にある秘密を捜し出そうと苦心した。接吻《せっぷん》の痕《あと》、性慾の痕が何処かに顕《あら》われておりはせぬか。神聖なる恋以上に二人の間は進歩しておりはせぬか、けれど手紙にも解らぬのは恋のまことの消息であった。
 一カ月は過ぎた。
 ところが、ある日、時雄は芳子に宛てた一通の端書を受取った。英語で書いてある端書であった。何気なく読むと、一月ほどの生活費は準備して
前へ 次へ
全105ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング