になった。取り残した芋《いも》の葉に雨は終日|降頻《ふりしき》って、八百屋《やおや》の店には松茸《まつたけ》が並べられた。垣の虫の声は露に衰えて、庭の桐《きり》の葉も脆《もろ》くも落ちた。午前の中の一時間、九時より十時までを、ツルゲネーフの小説の解釈、芳子は師のかがやく眼の下に、机に斜《はす》に坐って、「オン、ゼ、イブ」の長い長い物語に耳を傾けた。エレネの感情に烈《はげ》しく意志の強い性格と、その悲しい悲壮なる末路とは如何《いか》にかの女を動かしたか。芳子はエレネの恋物語を自分に引くらべて、その身を小説の中に置いた。恋の運命、恋すべき人に恋する機会がなく、思いも懸けぬ人にその一生を任した運命、実際芳子の当時の心情そのままであった。須磨の浜で、ゆくりなく受取った百合《ゆり》の花の一葉の端書、それがこうした運命になろうとは夢にも思い知らなかったのである。
 雨の森、闇の森、月の森に向って、芳子はさまざまにその事を思った。京都の夜汽車、嵯峨《さが》の月、膳所《ぜぜ》に遊んだ時には湖水に夕日が美しく射渡って、旅館の中庭に、萩《はぎ》が絵のように咲乱れていた。その二日の遊は実に夢のようであったと
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