既に十時半の処を指すのを見て、「それにしてもどうしたんだろう。若い身空で、こう遅くまで一人で出て歩くと言うのは?」
「もう帰って来ますよ」
「こんなことは幾度もあるんですか」
「いいえ、滅多《めった》にありはしませんよ。夏の夜だから、まだ宵の口位に思って歩いているんですよ」
 姉は話しながら裁縫《しごと》の針を止めぬのである。前に鴨脚《いちょう》の大きい裁物板《たちものいた》が据えられて、彩絹《きぬ》の裁片《たちきれ》や糸や鋏《はさみ》やが順序なく四面《あたり》に乱れている。女物の美しい色に、洋燈《ランプ》の光が明かに照り渡った。九月中旬の夜は更《ふ》けて、稍々《やや》肌《はだ》寒く、裏の土手下を甲武の貨物汽車がすさまじい地響を立てて通る。
 下駄の音がする度《たび》に、今度こそは! 今度こそは! と待渡ったが、十一時が打って間もなく、小きざみな、軽い後歯《あとば》の音が静かな夜を遠く響いて来た。
「今度のこそ、芳子さんですよ」
 と姉は言った。
 果してその足音が家の入口の前に留って、がらがらと格子《こうし》が開く。
「芳子さん?」
「ええ」
 と艶《あで》やかな声がする。
 玄関か
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