濠《ほり》の松の上に音も無く昇っていた。その色、その状《かたち》、その姿がいかにも侘《わび》しい。その侘しさがその身の今の侘しさによく適《かな》っていると時雄は思って、また堪え難い哀愁がその胸に漲《みなぎ》り渡った。
酔は既に醒《さ》めた。夜露は置始めた。
土手三番町の家の前に来た。
覗《のぞ》いてみたが、芳子の室に燈火の光が見えぬ。まだ帰って来ぬとみえる。時雄の胸はまた燃えた。この夜、この暗い夜に恋しい男と二人! 何をしているか解らぬ。こういう常識を欠いた行為を敢《あえ》てして、神聖なる恋とは何事? 汚れたる行為の無いのを弁明するとは何事?
すぐ家に入ろうとしたが、まだ当人が帰っておらぬのに上っても為方が無いと思って、その前を真直《まっすぐ》に通り抜けた。女と摩違《すれちが》う度《たび》に、芳子ではないかと顔を覗きつつ歩いた。土手の上、松の木蔭、街道の曲り角、往来の人に怪まるるまで彼方此方《あっちこっち》を徘徊《はいかい》した。もう九時、十時に近い。いかに夏の夜であるからと言って、そう遅くまで出歩いている筈《はず》が無い。もう帰ったに相違ないと思って、引返して姉の家に行ったが
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