のれん》が涼しそうに夕風に靡《なび》く。時雄はこの夏の夜景を朧《おぼろ》げに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い溝《みぞ》に落ちて膝頭《ひざがしら》をついたり、職工|体《てい》の男に、「酔漢奴《よっぱらいめ》! しっかり歩け!」と罵《ののし》られたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞《ひっそり》としていた。大きい古い欅《けやき》の樹と松の樹とが蔽い冠さって、左の隅《すみ》に珊瑚樹《さんごじゅ》の大きいのが繁《しげ》っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如《いきなり》その珊瑚樹の蔭に身を躱《かく》して、その根本の地上に身を横《よこた》えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬《しっと》の念に駆《か》られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。
初めて恋するような熱烈な情は無論なかった。盲目にその運命に従うと謂《い》うよりは、寧《むし》ろ冷《ひやや》かにその運命を批判した。熱い主観の情と冷めたい客観の批判とが絡
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