飲んだ。もう酔は余程廻ったらしい。顔の色は赤銅色《しゃくどういろ》に染って眼が少しく据っていた。急に立上って、
「おい、帯を出せ!」
「何処《どこ》へいらっしゃる」
「三番町まで行って来る」
「姉の処?」
「うむ」
「およしなさいよ、危《あぶ》ないから」
「何アに大丈夫だ、人の娘を預って監督せずに投遣《なげやり》にしてはおかれん。男がこの東京に来て一緒に歩いたり何かしているのを見ぬ振をしてはおかれん。田川(姉の家の姓)に預けておいても不安心だから、今日、行って、早かったら、芳子を家に連れて来る。二階を掃除しておけ」
「家に置くんですか、また……」
「勿論《もちろん》」
 細君は容易に帯と着物とを出そうともせぬので、
「よし、よし、着物を出さんのなら、これで好い」と、白地の単衣《ひとえ》に唐縮緬《とうちりめん》の汚れたへこ[#「へこ」に傍点]帯、帽子も被《かぶ》らずに、そのままに急いで戸外へ出た。「今出しますから……本当に困って了う」という細君の声が後に聞えた。
 夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来の酒井の森には烏《からす》の声が喧《やかま》しく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘
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