は何だ! 何故《なぜ》私とは書かぬ、何故複数を用いた? 時雄の胸は嵐《あらし》のように乱れた。着いたのは昨日の六時、姉の家に行って聞き糺《ただ》せば昨夜何時頃に帰ったか解るが、今日はどうした、今はどうしている?
細君の心を尽した晩餐《ばんさん》の膳《ぜん》には、鮪《まぐろ》の新鮮な刺身に、青紫蘇《あおじそ》の薬味を添えた冷豆腐《ひややっこ》、それを味う余裕もないが、一盃《いっぱい》は一盃と盞《さかずき》を重ねた。
細君は末の児を寝かして、火鉢の前に来て坐ったが、芳子の手紙の夫の傍にあるのに眼を附けて、
「芳子さん、何て言って来たのです?」
時雄は黙って手紙を投げて遣《や》った、細君はそれを受取りながら、夫の顔をじろりと見て、暴風の前に来る雲行の甚だ急なのを知った。
細君は手紙を読終って巻きかえしながら、
「出て来たのですね」
「うむ」
「ずっと東京に居るんでしょうか」
「手紙に書いてあるじゃないか、すぐ帰すッて……」
「帰るでしょうか」
「そんなこと誰が知るものか」
夫の語気が烈《はげ》しいので、細君は口を噤《つぐ》んで了った。少時《しばらく》経《た》ってから、
「だから、本
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