のように、最後の情を伝えて来た時、その謎《なぞ》をこの身が解いて遣《や》らなかった。女性のつつましやかな性《さが》として、その上に猶《なお》露《あら》わに迫って来ることがどうして出来よう。そういう心理からかの女は失望して、今回のような事を起したのかも知れぬ。
「とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既に他人《ひと》の所有《もの》だ!」
歩きながら渠《かれ》はこう絶叫して頭髪をむしった。
縞《しま》セルの背広に、麦稈帽《むぎわらぼう》、藤蔓《ふじづる》の杖《ステッキ》をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪《た》え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充《み》ち渡って、深い碧《みどり》の色が際立《きわだ》って人の感情を動かした。肴屋《さかなや》、酒屋、雑貨店、その向うに寺の門やら裏店《うらだな》の長屋やらが連《つらな》って、久堅町《ひさかたまち》の低い地には数多《あまた》の工場の煙筒《えんとつ》が黒い煙を漲《みなぎ》らしていた。
その数多い工場の一つ、西洋風の二階の一室、それが渠の毎日|正午《ひる》から通う処で、十畳敷ほどの広さの室《へや》で中央《まん
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