風《あらし》が潜んでいたのである。機会に遭遇《でっくわ》しさえすれば、その底の底の暴風は忽《たちま》ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了《しま》うであろうと思われた。少くとも男はそう信じていた。それであるのに、二三日来のこの出来事、これから考えると、女は確かにその感情を偽り売ったのだ。自分を欺いたのだと男は幾度も思った。けれど文学者だけに、この男は自ら自分の心理を客観するだけの余裕を有《も》っていた。年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、かの温《あたたか》い嬉《うれ》しい愛情は、単に女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度も都《すべ》て無意識で、無意味で、自然の花が見る人に一種の慰藉《なぐさみ》を与えたようなものかも知れない。一歩を譲って女は自分を愛して恋していたとしても、自分は師、かの女は門弟、自分は妻あり子ある身、かの女は妙齢の美しい花、そこに互に意識の加わるのを如何《いかん》ともすることは出来まい。いや、更に一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶《もだえ》を訴えて、丁度自然の力がこの身を圧迫するか
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