しているところへゆくりなく時雄が行って訪問した時、この二度だ。初めの時は時雄はその手紙の意味を明かに了解した。その返事をいかに書くべきかに就いて一夜眠らずに懊悩《おうのう》した。穏かに眠れる妻の顔、それを幾度か窺《うかが》って自己の良心のいかに麻痺《まひ》せるかを自ら責めた。そしてあくる朝贈った手紙は、厳乎《げんこ》たる師としての態度であった。二度目はそれから二月ほど経《た》った春の夜、ゆくりなく時雄が訪問すると、芳子は白粉《おしろい》をつけて、美しい顔をして、火鉢《ひばち》の前にぽつねんとしていた。
「どうしたの」と訊《き》くと、
「お留守番ですの」
「姉は何処《どこ》へ行った?」
「四谷へ買物に」
と言って、じっと時雄の顔を見る。いかにも艶《なまめ》かしい。時雄はこの力ある一瞥《いちべつ》に意気地なく胸を躍《おど》らした。二語三語《ふたことみこと》、普通のことを語り合ったが、その平凡なる物語が更に平凡でないことを互に思い知ったらしかった。この時、今十五分も一緒に話し合ったならば、どうなったであろうか。女の表情の眼は輝き、言葉は艶《なま》めき、態度がいかにも尋常《よのつね》でなかっ
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