先生! と世にも豪《えら》い人のように渇仰して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか。
最初の一月ほどは時雄の家に仮寓《かぐう》していた。華《はな》やかな声、艶《あで》やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、何等の対照! 産褥から出たばかりの細君を助けて、靴下を編む、襟巻《えりまき》を編む、着物を縫う、子供を遊ばせるという生々した態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供と共に細君がいぎたなく眠って了って、六畳の室に徒《いたずら》に明らかな洋燈《ランプ》も、却《かえ》って侘《わび》しさを増すの種であったが、今は如何《いか》に夜更《よふ》けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧に編物の針を動かして、膝《ひざ》の上に色ある毛糸の丸い玉! 賑かな笑声が牛込の奥の小柴垣《こしばがき》の中に充ちた。
けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置く事の不可能なのを覚った。従順なる家妻は敢てその事に不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色《きし
前へ
次へ
全105ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング