で字下げ終わり]
時雄は今更に地の底にこの身を沈めらるるかと思った。手紙を持って立上った。その激した心には、芳子がこの懺悔《ざんげ》を敢《あえ》てした理由――総《すべ》てを打明けて縋ろうとした態度を解釈する余裕が無かった。二階の階梯《はしご》をけたたましく踏鳴らして上って、芳子の打伏している机の傍に厳然として坐った。
「こうなっては、もう為方がない。私はもうどうすることも出来ぬ。この手紙はあなたに返す、この事に就いては、誓って何人にも沈黙を守る。とにかく、あなたが師として私を信頼した態度は新しい日本の女として恥しくない。けれどこうなっては、あなたが国に帰るのが至当だ。今夜――これから直ぐ父様の処に行きましょう、そして一伍一什《いちぶしじゅう》を話して、早速、国に帰るようにした方が好い」
で、飯を食い了《おわ》るとすぐ、支度をして家を出た。芳子の胸にさまざまの不服、不平、悲哀が溢《あふ》れたであろうが、しかも時雄の厳《おごそ》かなる命令に背《そむ》くわけには行かなかった。市ヶ谷から電車に乗った。二人相並んで座を取ったが、しかも一語をも言葉を交えなかった。山下門で下りて、京橋の旅館に行くと、父親は都合よく在宅していた。一伍一什――父親は特に怒りもしなかった。唯同行して帰国するのをなるべく避けたいらしかったが、しかもそれより他に路《みち》は無かった。芳子は泣きも笑いもせず、唯、運命の奇《く》しきに呆《あき》るるという風であった。時雄は捨てた積りで芳子を自分に任せることは出来ぬかと言ったが、父親は当人が親を捨ててもというならばいざ知らず、普通の状態に於いては無論許そうとは為なかった。芳子もまた親を捨ててまでも、帰国を拒むほどの決心が附いておらなかった。で、時雄は芳子を父親に預けて帰宅した。
十
田中は翌朝時雄を訪うた。かれは大勢《たいせい》の既に定まったのを知らずに、己の事情の帰国に適せぬことを縷々《るる》として説こうとした。霊肉共に許した恋人の例《ならい》として、いかようにしても離れまいとするのである。
時雄の顔には得意の色が上《のぼ》った。
「いや、もうその問題は決着したです。芳子が一伍一什をすっかり話した。君等は僕を欺いていたということが解った。大変な神聖な恋でしたナ」
田中の顔は俄《にわ》かに変った。羞恥《しゅうち》の念と激昂《げっこう》の情と絶望の悶《もだえ》とがその胸を衝《つ》いた。かれは言うところを知らなかった。
「もう、止むを得んです」と時雄は言葉を続《つ》いで、「僕はこの恋に関係することが出来ません。いや、もう厭《いや》です。芳子を父親の監督に移したです」
男は黙って坐っていた。蒼《あお》いその顔には肉の戦慄《せんりつ》が歴々《ありあり》と見えた。不図《ふと》、急に、辞儀をして、こうしてはいられぬという態度で、此処《ここ》を出て行った。
午前十時頃、父親は芳子を伴うて来た。愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》今夜六時の神戸急行で帰国するので、大体の荷物は後から送って貰《もら》うとして、手廻の物だけ纒《まと》めて行こうというのであった。芳子は自分の二階に上って、そのまま荷物の整理に取懸った。
時雄の胸は激してはおったが、以前よりは軽快であった。二百余里の山川を隔てて、もうその美しい表情をも見ることが出来なくなると思うと、言うに言われぬ侘《わび》しさを感ずるが、その恋せる女を競争者の手から父親の手に移したことは尠《すくな》くとも愉快であった。で、時雄は父親と寧《むし》ろ快活に種々なる物語に耽《ふけ》った。父親は田舎の紳士によく見るような書画道楽、雪舟、応挙、容斎の絵画、山陽、竹田《ちくでん》、海屋《かいおく》、茶山《さざん》の書を愛し、その名幅を無数に蔵していた。話は自《おのずか》らそれに移った。平凡なる書画物語は、この一室に一時栄えた。
田中が来て、時雄に逢いたいと言った。八畳と六畳との中じきりを閉めて、八畳で逢った。父親は六畳に居た。芳子は二階の一室に居た。
「御帰国になるんでしょうか」
「え、どうせ、帰るんでしょう」
「芳さんも一緒に」
「それはそうでしょう」
「何時《いつ》ですか、お話下されますまいか」
「どうも今の場合、お話することは出来ませんナ」
「それでは一寸《ちょっと》でも……芳さんに逢わせて頂く訳には参りますまいか」
「それは駄目でしょう」
「では、お父様は何方へお泊りですか、一寸番地をうかがいたいですが」
「それも僕には教えて好いか悪いか解らんですから」
取附く島がない。田中は黙って暫《しば》し坐っていたが、そのまま辞儀をして去った。
昼飯の膳《ぜん》がやがて八畳に並んだ。これがお別れだと云うので、細君は殊《こと》に注意して酒肴《さけさかな》を揃《そ
前へ
次へ
全27ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング