るように言って、障子を烈しく閉めて室内に入った。

        九

 父親は夕飯の馳走《ちそう》になって旅宿に帰った。時雄のその夜の煩悶《はんもん》は非常であった。欺かれたと思うと、業《ごう》が煮えて為方がない。否、芳子の霊と肉――その全部を一書生に奪われながら、とにかくその恋に就いて真面目《まじめ》に尽したかと思うと腹が立つ。その位なら、――あの男に身を任せていた位なら、何もその処女の節操を尊ぶには当らなかった。自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買えば好かった。こう思うと、今まで上天の境《きょう》に置いた美しい芳子は、売女《ばいじょ》か何ぞのように思われて、その体は愚か、美しい態度も表情も卑しむ気になった。で、その夜は悶《もだ》え悶えて殆《ほとん》ど眠られなかった。様々の感情が黒雲のように胸を通った。その胸に手を当てて時雄は考えた。いっそこうしてくれようかと思うた。どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して、自分の自由にしようかと思った。と、種々《いろいろ》なことが頭脳《あたま》に浮ぶ。芳子がその二階に泊って寝ていた時、もし自分がこっそりその二階に登って行って、遣瀬《やるせ》なき恋を語ったらどうであろう。危座《きざ》して自分を諌《いさ》めるかも知れぬ。声を立てて人を呼ぶかも知れぬ。それとも又せつない自分の情を汲《く》んで犠牲になってくれるかも知れぬ。さて犠牲になったとして、翌朝はどうであろう、明かな日光を見ては、さすがに顔を合せるにも忍びぬに相違ない。日|長《た》けるまで、朝飯をも食わずに寝ているに相違ない。その時、モウパッサンの「父」という短篇を思い出した。ことに少女が男に身を任せて後烈しく泣いたことの書いてあるのを痛切に感じたが、それを又今思い出した。かと思うと、この暗い想像に抵抗する力が他の一方から出て、盛《さかん》にそれと争った。で、煩悶《はんもん》又煩悶、懊悩《おうのう》また懊悩、寝返を幾度となく打って二時、三時の時計の音をも聞いた。
 芳子も煩悶したに相違なかった。朝起きた時は蒼《あお》い顔を為《し》ていた。朝飯をも一|椀《わん》で止した。なるたけ時雄の顔に逢うのを避けている様子であった。芳子の煩悶はその秘密を知られたというよりも、それを隠しておいた非を悟った煩悶であったらしい。午後にちょっと出て来たいと言ったが、社へも行かずに家に居た時雄はそれを許さなかった。一日はかくて過ぎた。田中から何等の返事もなかった。
 芳子は午飯《ひるめし》も夕飯も食べたくないとて食わない。陰鬱《いんうつ》な気が一家に充《み》ちた。細君は夫の機嫌《きげん》の悪いのと、芳子の煩悶しているのに胸を痛めて、どうしたことかと思った。昨日の話の模様では、万事円満に収まりそうであったのに……。細君は一椀なりと召上らなくては、お腹が空《す》いて為方《しかた》があるまいと、それを侑《すす》めに二階へ行った。時雄はわびしい薄暮を苦《にが》い顔をして酒を飲んでいた。やがて細君が下りて来た。どうしていたと時雄は聞くと、薄暗い室に洋燈《ランプ》も点《つ》けず、書き懸けた手紙を机に置いて打伏《うつぶ》していたとの話。手紙? 誰に遣《や》る手紙? 時雄は激した。そんな手紙を書いたって駄目だと宣告しようと思って、足音高く二階に上った。
「先生、後生《ごしょう》ですから」
 と祈るような声が聞えた。机の上に打伏したままである。「先生、後生ですから、もう、少し待って下さい。手紙に書いて、さし上げますから」
 時雄は二階を下りた。暫くして下女は細君に命ぜられて、二階に洋燈《ランプ》を点けに行ったが、下りて来る時、一通の手紙を持って来て、時雄に渡した。
 時雄は渇したる心を以て読んだ。
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先生、
私は堕落女学生です。私は先生の御厚意を利用して、先生を欺きました。その罪はいくらお詫《わ》びしても許されませぬほど大きいと思います。先生、どうか弱いものと思ってお憐《あわれ》み下さい。先生に教えて頂いた新しい明治の女子としての務め、それを私は行っておりませんでした。矢張私は旧派の女、新しい思想を行う勇気を持っておりませんでした。私は田中に相談しまして、どんなことがあってもこの事ばかりは人に打明けまい。過ぎたことは為方が無いが、これからは清浄な恋を続けようと約束したのです。けれど、先生、先生の御煩悶が皆な私の至らない為であると思いますと、じっとしてはいられません。今日は終日そのことで胸を痛めました。どうか先生、この憐れなる女をお憐み下さいまし。先生にお縋《すが》り申すより他、私には道が無いので御座います。
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[#地から2字上げ]芳子
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先生 おもと
[#ここ
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