に嫁けるようなことはすまいと言う。実に恩恵ある言葉だ。許可すると言ったより一層恩義が深い。君はこれが解らんですか」
田中は低頭《うつむ》いて顔をしかめると思ったら、涙がはらはらとその頬《ほお》を伝った。
一座は水を打ったように静かになった。
田中は溢《あふ》れ出《い》ずる涙を手の拳《こぶし》で拭《ぬぐ》った。時雄は今ぞ時と、
「どうです、返事を為給《したま》え」
「私などはどうなっても好うおます。田舎に埋れても構わんどす!」
また涙を拭った。
「それではいかん。そう反抗的に言ったって為方がない。腹の底を打明けて、互に不満足のないようにしようとする為めのこの会合です。君は達《た》って、田舎に帰るのが厭《いや》だとならば、芳子を国に帰すばかりです」
「二人一緒に東京に居ることは出来んですか?」
「それは出来ん。監督上出来ん。二人の将来の為めにも出来ん」
「それでは田舎に埋れてもようおます!」
「いいえ、私が帰ります」と芳子も涙に声を震わして、「私は女……女です……貴方さえ成功して下されば、私は田舎に埋れても構やしません、私が帰ります」
一座はまた沈黙に落ちた。
暫くしてから、時雄は調子を改めて、
「それにしても、君はどうして京都に帰れんのです。神戸の恩人に一伍一什《いちぶしじゅう》を話して、今までの不心得を謝して、同志社に戻ったら好いじゃありませんか。芳子さんが文学志願だから、君も文学家にならんければならんというようなことはない。宗教家として、神学者として、牧師として大《おおい》に立ったなら好いでしょう」
「宗教家にはもうとてもようなりまへん。人に対《むか》って教を説くような豪《えら》い人間ではないでおますで。……それに、残念ですのは、三月の間苦労しまして、実は漸《ようや》くある親友の世話で、衣食の道が開けましたで、……田舎に埋れるには忍びまへんで」
三人は猶《なお》語った。話は遂に一小段落を告げた。田中は今夜親友に相談して、明日か明後日までに確乎《かっこ》たる返事を齎《もた》らそうと言って、一先《ひとま》ず帰った。時計はもう午後四時、冬の日は暮近く、今まで室の一隅に照っていた日影もいつか消えて了《しま》った。
一室は父親と時雄の二人になった。
「どうも煮えきらない男ですわい」と父親はそれとなく言った。
「どうも形式的で、甚だ要領を得んです。もう少し打明けて、ざっくばらんに話してくれると好いですけれど……」
「どうも中国の人間はそうは行かんですけえ、人物が小さくって、小細工で、すぐ人の股《また》を潜《くぐ》ろうとするですわい。関東から東北の人はまるで違うですがナア。悪いのは悪い、好いのは好いと、真情を吐露して了うけえ、好いですけどもナ。どうもいかん。小細工で、小理窟《こりくつ》で、めそめそ泣きおった……」
「どうもそういうところがありますナ」
「見ていさっしゃい、明日きっと快諾しゃあせんけえ、何のかのと理窟をつけて、帰るまいとするけえ」
時雄の胸に、ふと二人の関係に就いての疑惑が起った。男の烈《はげ》しい主張と芳子を己《おの》が所有とする権利があるような態度とは、時雄にこの疑惑を起さしむるの動機となったのである。
「で、二人の間の関係をどう御観察なすったです」
時雄は父親に問うた。
「そうですな。関係があると思わんけりゃなりますまい」
「今の際、確めておく必要があると思うですが、芳子さんに、嵯峨行《さがゆき》の弁解をさせましょうか。今度の恋は嵯峨行の後に始めて感じたことだと言うてましたから、その証拠になる手紙があるでしょうから」
「まア、其処までせんでも……」
父親は関係を信じつつもその事実となるのを恐れるらしい。
運悪く其処に芳子は茶を運んで来た。
時雄は呼留めて、その証拠になる手紙があるだろう、その身の潔白を証する為めに、その前後の手紙を見せ給えと迫った。
これを聞いた芳子の顔は俄《にわ》かに赧《あか》くなった。さも困ったという風が歴々《ありあり》として顔と態度とに顕《あら》われた。
「あの頃の手紙はこの間皆な焼いて了いましたから」その声は低かった。
「焼いた?」
「ええ」
芳子は顔を俛《た》れた。
「焼いた? そんなことは無いでしょう」
芳子の顔は愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》赧《あか》くなった。時雄は激さざるを得なかった。事実は恐しい力でかれの胸を刺した。
時雄は立って厠《かわや》に行った。胸は苛々《いらいら》して、頭脳《あたま》は眩惑《げんわく》するように感じた。欺かれたという念が烈しく心頭を衝《つ》いて起った。厠を出ると、其処に――障子の外に、芳子はおどおどした様子で立っている。
「先生――本当に、私は焼いて了ったのですから」
「うそをお言いなさい」と、時雄は叱《しか》
前へ
次へ
全27ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング