ろ》えた。時雄も別れのしるしに、三人相並んで会食しようとしたのである。けれど芳子はどうしても食べたくないという。細君が説勧《ときすす》めても来ない。時雄は自身二階に上った。
 東の窓を一枚明けたばかり、暗い一室には本やら、雑誌やら、着物やら、帯やら、罎《びん》やら、行李《こうり》やら、支那鞄《しなかばん》やらが足の踏《ふ》み度《ど》も無い程に散らばっていて、塵埃《ほこり》の香が夥《おびただ》しく鼻を衝《つ》く中に、芳子は眼を泣腫《なきはら》して荷物の整理を為ていた。三年前、青春の希望|湧《わ》くがごとき心を抱《いだ》いて東京に出て来た時のさまに比べて、何等の悲惨、何等の暗黒であろう。すぐれた作品一つ得ず、こうして田舎に帰る運命かと思うと、堪らなく悲しくならずにはいられまい。
「折角支度したから、食ったらどうです。もう暫くは一緒に飯も食べられんから」
「先生――」
 と、芳子は泣出した。
 時雄も胸を衝《つ》いた。師としての温情と責任とを尽したかと烈しく反省した。かれも泣きたいほど侘《わび》しくなった。光線の暗い一室、行李や書籍の散逸せる中に、恋せる女の帰国の涙、これを慰むる言葉も無かった。
 午後三時、車が三台来た。玄関に出した行李、支那鞄、信玄袋を車夫は運んで車に乗せた。芳子は栗梅《くりうめ》の被布《ひふ》を着て、白いリボンを髪に※[#「插」のつくりの縦棒が下に突き抜ける、第4水準2−13−28]《さ》して、眼を泣腫《なきはら》していた。送って出た細君の手を堅く握って、
「奥さん、左様なら……私、またきっと来てよ、きっと来てよ、来ないでおきはしないわ」
「本当にね、又出ていらっしゃいよ。一年位したら、きっとね」
 と、細君も堅く手を握りかえした。その眼には涙が溢《あふ》れた。女心の弱く、同情の念はその小さい胸に漲《みなぎ》り渡ったのである。
 冬の日のやや薄寒き牛込の屋敷町、最先《まっさき》に父親、次に芳子、次に時雄という順序で車は走り出した。細君と下婢とは名残《なごり》を惜んでその車の後影を見送っていた。その後に隣の細君がこの俄《にわ》かの出立を何事かと思って見ていた。猶その後の小路の曲り角に、茶色の帽子を被《かぶ》った男が立っていた。芳子は二度、三度まで振返った。
 車が麹町《こうじまち》の通を日比谷へ向う時、時雄の胸に、今の女学生ということが浮んだ。前に行く車上の芳子、高い二百三高地巻、白いリボン、やや猫背勝なる姿、こういう形をして、こういう事情の下に、荷物と共に父に伴《つ》れられて帰国する女学生はさぞ多いことであろう。芳子、あの意志の強い芳子でさえこうした運命を得た。教育家の喧《やかま》しく女子問題を言うのも無理はない。時雄は父親の苦痛と芳子の涙とその身の荒涼たる生活とを思った。路行く人の中にはこの荷物を満載して、父親と中年の男子に保護されて行く花の如き女学生を意味ありげに見送るものもあった。
 京橋の旅館に着いて、荷物を纒《まと》め、会計を済ました。この家は三年前、芳子が始めて父に伴れられて出京した時泊った旅館で、時雄は此処に二人を訪問したことがあった。三人はその時と今とを胸に比較して感慨多端であったが、しかも互に避けて面《おもて》にあらわさなかった。五時には新橋の停車場に行って、二等待合室に入った。
 混雑また混雑、群衆また群衆、行く人送る人の心は皆|空《そら》になって、天井に響く物音が更に旅客の胸に反響した。悲哀《かなしみ》と喜悦《よろこび》と好奇心とが停車場の到る処に巴渦《うず》を巻いていた。一刻毎に集り来る人の群、殊に六時の神戸急行は乗客が多く、二等室も時の間に肩摩轂撃《けんまこくげき》の光景となった。時雄は二階の壺屋《つぼや》からサンドウィッチを二箱買って芳子に渡した。切符と入場切符も買った。手荷物のチッキも貰った。今は時刻を待つばかりである。
 この群集の中に、もしや田中の姿が見えはせぬかと三人皆思った。けれどその姿は見えなかった。
 ベルが鳴った。群集はぞろぞろと改札口に集った。一刻も早く乗込もうとする心が燃えて、焦立《いらだ》って、その混雑は一通りでなかった。三人はその間を辛《かろ》うじて抜けて、広いプラットホオムに出た。そして最も近い二等室に入った。
 後からも続々と旅客が入って来た。長い旅を寝て行こうとする商人もあった。呉《くれ》あたりに帰るらしい軍人の佐官もあった。大阪言葉を露骨に、喋々《ちょうちょう》と雑話に耽《ふ》ける女連もあった。父親は白い毛布を長く敷いて、傍に小さい鞄を置いて、芳子と相並んで腰を掛けた。電気の光が車内に差渡って、芳子の白い顔がまるで浮彫のように見えた。父親は窓際に来て、幾度も厚意のほどを謝し、後に残ることに就いて、万事を嘱《しょく》した。時雄は茶色の中折帽、七子《ななこ
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