推《お》して、その表情の巧みなのは驚くべきほどで、いかなることがあっても先生の門下生になって、一生文学に従事したいとの切なる願望《のぞみ》。文字は走り書のすらすらした字で、余程ハイカラの女らしい。返事を書いたのは、例の工場の二階の室で、その日は毎日の課業の地理を二枚書いて止《よ》して、長い数尺に余る手紙を芳子に送った。その手紙には女の身として文学に携わることの不心得、女は生理的に母たるの義務を尽さなければならぬ理由、処女にして文学者たるの危険などを縷々《るる》として説いて、幾らか罵倒《ばとう》的の文辞をも陳《なら》べて、これならもう愛想《あいそ》をつかして断念《あきら》めて了《しま》うであろうと時雄は思って微笑した。そして本箱の中から岡山県の地図を捜して、阿哲郡《あてつぐん》新見町の所在を研究した。山陽線から高梁川《たかはしがわ》の谷を遡《さかのぼ》って奥十数里、こんな山の中にもこんなハイカラの女があるかと思うと、それでも何となくなつかしく、時雄はその附近の地形やら山やら川やらを仔細《しさい》に見た。
 で、これで返辞をよこすまいと思ったら、それどころか、四日目には更に厚い封書が届いて、紫インキで、青い罫《けい》の入った西洋紙に横に細字で三枚、どうか将来見捨てずに弟子にしてくれという意味が返す返すも書いてあって、父母に願って許可を得たならば、東京に出て、然《しか》るべき学校に入って、完全に忠実に文学を学んでみたいとのことであった。時雄は女の志に感ぜずにはいられなかった。東京でさえ――女学校を卒業したものでさえ、文学の価値《ねうち》などは解らぬものなのに、何もかもよく知っているらしい手紙の文句、早速《さっそく》返事を出して師弟の関係を結んだ。
 それから度々《たびたび》の手紙と文章、文章はまだ幼稚な点はあるが、癖の無い、すらすらした、将来発達の見込は十分にあると時雄は思った。で一度は一度より段々互の気質が知れて、時雄はその手紙の来るのを待つようになった。ある時などは写真を送れと言って遣《や》ろうと思って、手紙の隅《すみ》に小さく書いて、そしてまたこれを黒々と塗って了った。女性には容色《きりょう》と謂《い》うものが是非必要である。容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない。時雄も内々胸の中で、どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色《ぶきりょう》に相違ないと思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。
 芳子が父母に許可《ゆるし》を得て、父に伴《つ》れられて、時雄の門を訪《おとの》うたのは翌年の二月で、丁度時雄の三番目の男の児の生れた七夜の日であった。座敷の隣の室は細君の産褥《さんじょく》で、細君は手伝に来ている姉から若い女門下生の美しい容色であることを聞いて少なからず懊悩《おうのう》した。姉もああいう若い美しい女を弟子にしてどうする気だろうと心配した。時雄は芳子と父とを並べて、縷々《るる》として文学者の境遇と目的とを語り、女の結婚問題に就いて予《あらかじ》め父親の説を叩《たた》いた。芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者《クリスチャン》、母は殊《こと》にすぐれた信者で、曽《かつ》ては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。芳子は町の小学校を卒業するとすぐ、神戸に出て神戸の女学院に入り、其処《そこ》でハイカラな女学校生活を送った。基督《キリスト》教の女学校は他の女学校に比して、文学に対して総《すべ》て自由だ。その頃こそ「魔風恋風」や「金色夜叉《こんじきやしゃ》」などを読んではならんとの規定も出ていたが、文部省で干渉しない以前は、教場でさえなくば何を読んでも差支《さしつかえ》なかった。学校に附属した教会、其処で祈祷《きとう》の尊いこと、クリスマスの晩の面白いこと、理想を養うということの味をも知って、人間の卑《いや》しいことを隠して美しいことを標榜《ひょうぼう》するという群《むれ》の仲間となった。母の膝下《ひざもと》が恋しいとか、故郷《ふるさと》が懐《なつ》かしいとか言うことは、来た当座こそ切実に辛《つら》く感じもしたが、やがては全く忘れて、女学生の寄宿生活をこの上なく面白く思うようになった。旨味《おいし》い南瓜《かぼちゃ》を食べさせないと云っては、お鉢《はち》の飯に醤油《しょうゆ》を懸《か》けて賄方《まかないかた》を酷《いじ》めたり、舎監のひねくれた老婦の顔色を見て、陰陽《かげひなた》に物を言ったりする女学生の群の中に入っていては、家庭に養われた少女のように、単純に物を見ることがどうして出来よう。美しいこと、理想を養うこと、虚栄心の高いこと――こういう傾向をいつとなしに受けて、芳子は明治の女学生の長所と短所とを
前へ 次へ
全27ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング