遺憾なく備えていた。
尠《すくな》くとも時雄の孤独なる生活はこれによって破られた。昔の恋人――今の細君。曽《かつ》ては恋人には相違なかったが、今は時勢が移り変った。四五年来の女子教育の勃興《ぼっこう》、女子大学の設立、庇髪《ひさしがみ》、海老茶袴《えびちゃばかま》、男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人も無くなった。この世の中に、旧式の丸髷《まるまげ》、泥鴨《あひる》のような歩き振、温順と貞節とより他《ほか》に何物をも有せぬ細君に甘んじていることは時雄には何よりも情けなかった。路《みち》を行けば、美しい今様《いまよう》の細君を連れての睦《むつま》じい散歩、友を訪えば夫の席に出て流暢《りゅうちょう》に会話を賑《にぎや》かす若い細君、ましてその身が骨を折って書いた小説を読もうでもなく、夫の苦悶《くもん》煩悶には全く風馬牛で、子供さえ満足に育てれば好いという自分の細君に対すると、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。「寂しき人々」のヨハンネスと共に、家妻というものの無意味を感ぜずにはいられなかった。これが――この孤独が芳子に由《よ》って破られた。ハイカラな新式な美しい女門下生が、先生! 先生! と世にも豪《えら》い人のように渇仰して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか。
最初の一月ほどは時雄の家に仮寓《かぐう》していた。華《はな》やかな声、艶《あで》やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、何等の対照! 産褥から出たばかりの細君を助けて、靴下を編む、襟巻《えりまき》を編む、着物を縫う、子供を遊ばせるという生々した態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供と共に細君がいぎたなく眠って了って、六畳の室に徒《いたずら》に明らかな洋燈《ランプ》も、却《かえ》って侘《わび》しさを増すの種であったが、今は如何《いか》に夜更《よふ》けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧に編物の針を動かして、膝《ひざ》の上に色ある毛糸の丸い玉! 賑かな笑声が牛込の奥の小柴垣《こしばがき》の中に充ちた。
けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置く事の不可能なのを覚った。従順なる家妻は敢てその事に不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色《きしょく》は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚《しんせき》間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。
時雄は種々《いろいろ》に煩悶した後、細君の姉の家――軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮している姉の家に寄寓させて、其処《そこ》から麹町《こうじまち》の某|女塾《じょじゅく》に通学させることにした。
三
それから今回の事件まで一年半の年月が経過した。
その間二度芳子は故郷を省《せい》した。短篇小説を五種、長篇小説を一種、その他美文、新体詩を数十篇作った。某女塾では英語は優等の出来で、時雄の選択で、ツルゲネーフの全集を丸善から買った。初めは、暑中休暇に帰省、二度目は、神経衰弱で、時々|癪《しゃく》のような痙攣《けいれん》を起すので、暫《しば》し故山の静かな処に帰って休養する方が好いという医師の勧めに従ったのである。
その寓していた家は麹町の土手三番町、甲武《こうぶ》の電車の通る土手際《どてぎわ》で、芳子の書斎はその家での客座敷、八畳の一間、前に往来の頻繁《ひんぱん》な道路があって、がやがやと往来の人やら子供やらで喧《やかま》しい。時雄の書斎にある西洋本箱を小さくしたような本箱が一閑張《いっかんばり》の机の傍にあって、その上には鏡と、紅皿《べにざら》と、白粉《おしろい》の罎《びん》と、今一つシュウソカリの入った大きな罎がある。これは神経過敏で、頭脳《あたま》が痛くって為方《しかた》が無い時に飲むのだという。本箱には紅葉《こうよう》全集、近松|世話浄瑠璃《せわじょうるり》、英語の教科書、ことに新しく買ったツルゲネーフ全集が際立って目に附く。で、未来の閨秀《けいしゅう》作家は学校から帰って来ると、机に向って文を書くというよりは、寧《むし》ろ多く手紙を書くので、男の友達も随分多い。男文字の手紙も随分来る。中にも高等師範の学生に一人、早稲田《わせだ》大学の学生に一人、それが時々遊びに来たことがあったそうだ。
麹町土手三番町の一角には、女学生もそうハイカラなのが沢山居ない。それに、市ヶ谷見附の彼方《あちら》には時雄の妻君の里の家があるのだが、この附近は殊に昔風の商家の娘が多い。で、尠《すくな》くとも芳子の神戸仕込のハイカラはあたりの人の目を聳《そばだ》たしめた。時雄は姉の言葉として、妻から常に次のよう
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