なことを聞される。
「芳子さんにも困ったものですねと姉が今日も言っていましたよ、男の友達が来るのは好いけれど、夜など一緒に二七(不動)に出かけて、遅くまで帰って来ないことがあるんですって。そりゃ芳子さんはそんなことは無いのに決っているけれど、世間の口が喧《やかま》しくって為方《しかた》が無いと云っていました」
 これを聞くと時雄は定《きま》って芳子の肩を持つので、「お前達のような旧式の人間には芳子の遣《や》ることなどは判《わか》りやせんよ。男女が二人で歩いたり話したりさえすれば、すぐあやしいとか変だとか思うのだが、一体、そんなことを思ったり、言ったりするのが旧式だ、今では女も自覚しているから、為ようと思うことは勝手にするさ」
 この議論を時雄はまた得意になって芳子にも説法した。「女子ももう自覚せんければいかん。昔の女のように依頼心を持っていては駄目だ。ズウデルマンのマグダの言った通り、父の手からすぐに夫の手に移るような意気地なしでは為方が無い。日本の新しい婦人としては、自ら考えて自ら行うようにしなければいかん」こう言っては、イブセンのノラの話や、ツルゲネーフのエレネの話や、露西亜《ロシア》、独逸《ドイツ》あたりの婦人の意志と感情と共に富んでいることを話し、さて、「けれど自覚と云うのは、自省ということをも含んでおるですからな、無闇《むやみ》に意志や自我を振廻しては困るですよ。自分の遣ったことには自分が全責任を帯びる覚悟がなくては」
 芳子にはこの時雄の教訓が何より意味があるように聞えて、渇仰の念が愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》加わった。基督《キリスト》教の教訓より自由でそして権威があるように考えられた。
 芳子は女学生としては身装《みなり》が派手過ぎた。黄金《きん》の指環をはめて、流行を趁《お》った美しい帯をしめて、すっきりとした立姿は、路傍の人目を惹《ひ》くに十分であった。美しい顔と云うよりは表情のある顔、非常に美しい時もあれば何だか醜い時もあった。眼に光りがあってそれが非常によく働いた。四五年前までの女は感情を顕《あら》わすのに極《きわ》めて単純で、怒った容《かたち》とか笑った容とか、三種、四種位しかその感情を表わすことが出来なかったが、今では情を巧に顔に表わす女が多くなった。芳子もその一人であると時雄は常に思った。
 芳子と時雄との関係は単に師弟の間柄としては余りに親密であった。この二人の様子を観察したある第三者の女の一人が妻に向って、「芳子さんが来てから時雄さんの様子はまるで変りましたよ。二人で話しているところを見ると、魂は二人ともあくがれ渡っているようで、それは本当に油断がなりませんよ」と言った。他《はた》から見れば、無論そう見えたに相違なかった。けれど二人は果してそう親密であったか、どうか。
 若い女のうかれ勝な心、うかれるかと思えばすぐ沈む。些細《ささい》なことにも胸を動かし、つまらぬことにも心を痛める。恋でもない、恋でなくも無いというようなやさしい態度、時雄は絶えず思い惑った。道義の力、習俗の力、機会一度至ればこれを破るのは帛《きぬ》を裂くよりも容易だ。唯《ただ》、容易に来《きた》らぬはこれを破るに至る機会である。
 この機会がこの一年の間に尠《すくな》くとも二度近寄ったと時雄は自分だけで思った。一度は芳子が厚い封書を寄せて、自分の不束《ふつつか》なこと、先生の高恩に報ゆることが出来ぬから自分は故郷に帰って農夫の妻になって田舎《いなか》に埋れて了《しま》おうということを涙交りに書いた時、一度は或る夜芳子が一人で留守番をしているところへゆくりなく時雄が行って訪問した時、この二度だ。初めの時は時雄はその手紙の意味を明かに了解した。その返事をいかに書くべきかに就いて一夜眠らずに懊悩《おうのう》した。穏かに眠れる妻の顔、それを幾度か窺《うかが》って自己の良心のいかに麻痺《まひ》せるかを自ら責めた。そしてあくる朝贈った手紙は、厳乎《げんこ》たる師としての態度であった。二度目はそれから二月ほど経《た》った春の夜、ゆくりなく時雄が訪問すると、芳子は白粉《おしろい》をつけて、美しい顔をして、火鉢《ひばち》の前にぽつねんとしていた。
「どうしたの」と訊《き》くと、
「お留守番ですの」
「姉は何処《どこ》へ行った?」
「四谷へ買物に」
 と言って、じっと時雄の顔を見る。いかにも艶《なまめ》かしい。時雄はこの力ある一瞥《いちべつ》に意気地なく胸を躍《おど》らした。二語三語《ふたことみこと》、普通のことを語り合ったが、その平凡なる物語が更に平凡でないことを互に思い知ったらしかった。この時、今十五分も一緒に話し合ったならば、どうなったであろうか。女の表情の眼は輝き、言葉は艶《なま》めき、態度がいかにも尋常《よのつね》でなかっ
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