》を撼《うごか》す音と職工の臭い汗との交った細い間を通って、事務室の人々に軽く挨拶《あいさつ》して、こつこつと長い狭い階梯《はしご》を登って、さてその室《へや》に入るのだが、東と南に明いたこの室は、午後の烈しい日影を受けて、実に堪え難く暑い。それに小僧が無精で掃除《そうじ》をせぬので、卓の上には白い埃《ほこり》がざらざらと心地悪い。渠は椅子に腰を掛けて、煙草《たばこ》を一服吸って、立上って、厚い統計書と地図と案内記と地理書とを本箱から出して、さて静かに昨日の続きの筆を執り始めた。けれど二三日来、頭脳《あたま》がむしゃくしゃしているので、筆が容易に進まない。一行書いては筆を留めてその事を思う。また一行書く、また留める、又書いてはまた留めるという風。そしてその間に頭脳に浮んで来る考は総て断片的で、猛烈で、急激で、絶望的の分子が多い。ふとどういう聯想《れんそう》か、ハウプトマンの「寂《さび》しき人々」を思い出した。こうならぬ前に、この戯曲をかの女の日課として教えて遣ろうかと思ったことがあった。ヨハンネス・フォケラートの心事と悲哀とを教えて遣りたかった。この戯曲を渠が読んだのは今から三年以前、まだかの女のこの世にあることをも夢にも知らなかった頃であったが、その頃から渠は淋《さび》しい人であった。敢てヨハンネスにその身を比そうとは為《し》なかったが、アンナのような女がもしあったなら、そういう悲劇《トラジディ》に陥るのは当然だとしみじみ同情した。今はそのヨハンネスにさえなれぬ身だと思って長嘆した。
 さすがに「寂しき人々」をかの女に教えなかったが、ツルゲネーフの「ファースト」という短篇を教えたことがあった。洋燈《ランプ》の光|明《あきら》かなる四畳半の書斎、かの女の若々しい心は色彩ある恋物語に憧《あこが》れ渡って、表情ある眼は更に深い深い意味を以《もっ》て輝きわたった。ハイカラな庇髪《ひさしがみ》、櫛《くし》、リボン、洋燈の光線がその半身を照して、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり――書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男の声も烈しく戦《ふる》えた。
「けれど、もう駄目だ!」
 と、渠は再び頭髪《かみ》をむしった。

        二

 渠《かれ》は名を竹中時雄と謂《い》った。
 今より三年前、三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚《さ》め尽した頃であった。世の中の忙しい事業も意味がなく、一生作《ライフワーク》に力を尽す勇気もなく、日常の生活――朝起きて、出勤して、午後四時に帰って来て、同じように細君の顔を見て、飯を食って眠るという単調なる生活につくづく倦《あ》き果てて了《しま》った。家を引越歩いても面白くない、友人と語り合っても面白くない、外国小説を読み渉猟《あさ》っても満足が出来ぬ。いや、庭樹《にわき》の繁《しげ》り、雨の点滴《てんてき》、花の開落などいう自然の状態さえ、平凡なる生活をして更に平凡ならしめるような気がして、身を置くに処は無いほど淋しかった。道を歩いて常に見る若い美しい女、出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った。
 三十四五、実際この頃には誰にでもある煩悶《はんもん》で、この年頃に賤《いや》しい女に戯るるものの多いのも、畢竟《ひっきょう》その淋しさを医《いや》す為めである。世間に妻を離縁するものもこの年頃に多い。
 出勤する途上に、毎朝|邂逅《であ》う美しい女教師があった。渠はその頃この女に逢《あ》うのをその日その日の唯一の楽みとして、その女に就いていろいろな空想を逞《たくましゅ》うした。恋が成立って、神楽坂《かぐらざか》あたりの小待合に連れて行って、人目を忍んで楽しんだらどう……。細君に知れずに、二人近郊を散歩したらどう……。いや、それどころではない、その時、細君が懐妊しておったから、不図難産して死ぬ、その後にその女を入れるとしてどうであろう。……平気で後妻に入れることが出来るだろうかどうかなどと考えて歩いた。
 神戸の女学院の生徒で、生れは備中《びっちゅう》の新見町《にいみまち》で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情を以て充された一通の手紙を受取ったのはその頃であった。竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者|渇仰者《かつごうしゃ》の手紙はこれまでにも随分多かった。やれ文章を直してくれの、弟子《でし》にしてくれのと一々取合ってはいられなかった。だからその女の手紙を受取っても、別に返事を出そうとまでその好奇心は募らなかった。けれど同じ人の熱心なる手紙を三通まで貰《もら》っては、さすがの時雄も注意をせずにはいられなかった。年は十九だそうだが、手紙の文句から
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