蒲団
田山花袋
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)切支丹坂《きりしたんざか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎日|正午《ひる》から
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
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一
小石川の切支丹坂《きりしたんざか》から極楽水《ごくらくすい》に出る道のだらだら坂を下りようとして渠《かれ》は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
数多い感情ずくめの手紙――二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり、師弟の関係があればこそ敢《あえ》て烈《はげ》しい恋に落ちなかったが、語り合う胸の轟《とどろき》、相見る眼の光、その底には確かに凄《すさま》じい暴風《あらし》が潜んでいたのである。機会に遭遇《でっくわ》しさえすれば、その底の底の暴風は忽《たちま》ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了《しま》うであろうと思われた。少くとも男はそう信じていた。それであるのに、二三日来のこの出来事、これから考えると、女は確かにその感情を偽り売ったのだ。自分を欺いたのだと男は幾度も思った。けれど文学者だけに、この男は自ら自分の心理を客観するだけの余裕を有《も》っていた。年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、かの温《あたたか》い嬉《うれ》しい愛情は、単に女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度も都《すべ》て無意識で、無意味で、自然の花が見る人に一種の慰藉《なぐさみ》を与えたようなものかも知れない。一歩を譲って女は自分を愛して恋していたとしても、自分は師、かの女は門弟、自分は妻あり子ある身、かの女は妙齢の美しい花、そこに互に意識の加わるのを如何《いかん》ともすることは出来まい。いや、更に一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶《もだえ》を訴えて、丁度自然の力がこの身を圧迫するかのように、最後の情を伝えて来た時、その謎《なぞ》をこの身が解いて遣《や》らなかった。女性のつつましやかな性《さが》として、その上に猶《なお》露《あら》わに迫って来ることがどうして出来よう。そういう心理からかの女は失望して、今回のような事を起したのかも知れぬ。
「とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既に他人《ひと》の所有《もの》だ!」
歩きながら渠《かれ》はこう絶叫して頭髪をむしった。
縞《しま》セルの背広に、麦稈帽《むぎわらぼう》、藤蔓《ふじづる》の杖《ステッキ》をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪《た》え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充《み》ち渡って、深い碧《みどり》の色が際立《きわだ》って人の感情を動かした。肴屋《さかなや》、酒屋、雑貨店、その向うに寺の門やら裏店《うらだな》の長屋やらが連《つらな》って、久堅町《ひさかたまち》の低い地には数多《あまた》の工場の煙筒《えんとつ》が黒い煙を漲《みなぎ》らしていた。
その数多い工場の一つ、西洋風の二階の一室、それが渠の毎日|正午《ひる》から通う処で、十畳敷ほどの広さの室《へや》で中央《まんなか》には、大きい一脚の卓《テーブル》が据えてあって、傍に高い西洋風の本箱、この中には総《すべ》て種々の地理書が一杯入れられてある。渠はある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯《へんしゅう》の手伝に従っているのである。文学者に地理書の編輯! 渠は自分が地理の趣味を有っているからと称して進んでこれに従事しているが、内心これに甘《あまん》じておらぬことは言うまでもない。後《おく》れ勝なる文学上の閲歴、断篇のみを作って未《いま》だに全力の試みをする機会に遭遇せぬ煩悶《はんもん》、青年雑誌から月毎に受ける罵評《ばひょう》の苦痛、渠《かれ》自らはその他日成すあるべきを意識してはいるものの、中心これを苦に病まぬ訳には行かなかった。社会は日増《ひまし》に進歩する。電車は東京市の交通を一変させた。女学生は勢力になって、もう自分が恋をした頃のような旧式の娘は見たくも見られなくなった。青年はまた青年で、恋を説くにも、文学を談ずるにも、政治を語るにも、その態度が総て一変して、自分等とは永久に相触れることが出来ないように感じられた。
で、毎日機械のように同じ道を通って、同じ大きい門を入って、輪転機関の屋《いえ
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