ですからねえ」
「え……」と芳子は頭を垂れた。
「後で詳しく聞きましょうが、今の中《うち》は二人共じっとして勉強していなくては、為方がないですからね」
「え……」と言って、芳子は顔を挙げて、「それで先生、私達もそう思って、今はお互に勉強して、将来に希望を持って、親の許諾《ゆるし》をも得たいと存じておりますの!」
「それが好いです。今、余り騒ぐと、人にも親にも誤解されて了って、折角の真面目な希望も遂げられなくなりますから」
「ですから、ね、先生、私は一心になって勉強しようと思いますの。田中もそう申しておりました。それから、先生に是非お目にかかってお礼を申上げなければ済まないと申しておりましたけれど……よく申上げてくれッて……」
「いや……」
時雄は芳子の言葉の中に、「私共」と複数を遣《つか》うのと、もう公然|許嫁《いいなずけ》の約束でもしたかのように言うのとを不快に思った。まだ、十九か二十の妙齢の処女が、こうした言葉を口にするのを怪しんだ。時雄は時代の推移《おしうつ》ったのを今更のように感じた。当世の女学生|気質《かたぎ》のいかに自分等の恋した時代の処女気質と異っているかを思った。勿論《もちろん》、この女学生気質を時雄は主義の上、趣味の上から喜んで見ていたのは事実である。昔のような教育を受けては、到底今の明治の男子の妻としては立って行かれぬ。女子も立たねばならぬ、意志の力を十分に養わねばならぬとはかれの持論である。この持論をかれは芳子に向っても尠《すくな》からず鼓吹した。けれどこの新派のハイカラの実行を見てはさすがに眉《まゆ》を顰《ひそ》めずにはいられなかった。
男からは国府津《こうづ》の消印で帰途に就《つ》いたという端書《はがき》が着いて翌日三番町の姉の家から届けて来た。居間の二階には芳子が居て、呼べば直ぐ返事をして下りて来る。食事には三度三度膳を並べて団欒《だんらん》して食う。夜は明るい洋燈《ランプ》を取巻いて、賑《にぎ》わしく面白く語り合う。靴下は編んでくれる。美しい笑顔を絶えず見せる。時雄は芳子を全く占領して、とにかく安心もし満足もした。細君も芳子に恋人があるのを知ってから、危険の念、不安の念を全く去った。
芳子は恋人に別れるのが辛《つら》かった。成ろうことなら一緒に東京に居て、時々顔をも見、言葉をも交えたかった。けれど今の際それは出来難いことを知って
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