いかにも遣瀬《やるせ》ないというように微《かす》かに弁解した。
「中野へ散歩に行ったッて?」
時雄は突如として問うた。
「ええ……」芳子は時雄の顔色をまたちらりと見た。
姉は茶を淹《い》れる。土産の包を開くと、姉の好きな好きなシュウクリーム。これはマアお旨《い》しいと姉の声。で、暫《しばら》く一座はそれに気を取られた。
少時《しばらく》してから、芳子が、
「先生、私の帰るのを待っていて下さったの?」
「ええ、ええ、一時間半位待ったのよ」
と姉が傍《そば》から言った。
で、その話が出て、都合さえよくば今夜からでも――荷物は後からでも好いから――一緒に伴《つ》れて行く積りで来たということを話した。芳子は下を向いて、点頭《うなず》いて聞いていた。無論、その胸には一種の圧迫を感じたに相違ないけれど、芳子の心にしては、絶対に信頼して――今回の恋のことにも全心を挙げて同情してくれた師の家に行って住むことは別に甚《はなはだ》しい苦痛でも無かった。寧《むし》ろ以前からこの昔風の家に同居しているのを不快に思って、出来るならば、初めのように先生の家にと願っていたのであるから、今の場合でなければ、かえって大《おおい》に喜んだのであろうに……
時雄は一刻も早くその恋人のことを聞糺《ききただ》したかった。今、その男は何処《どこ》にいる? 何時《いつ》京都に帰るか? これは時雄に取っては実に重大な問題であった。けれど何も知らぬ姉の前で、打明けて問う訳にも行かぬので、この夜は露ほどもそのことを口に出さなかった。一座は平凡な物語に更《ふ》けた。
今夜にもと時雄の言出したのを、だって、もう十二時だ、明日にした方が宜《よ》かろうとの姉の注意。で、時雄は一人で牛込に帰ろうとしたが、どうも不安心で為方がないような気がしたので、夜の更けたのを口実に、姉の家に泊って、明朝早く一緒に行くことにした。
芳子は八畳に、時雄は六畳に姉と床を並べて寝た。やがて姉の小さい鼾《いびき》が聞えた。時計は一時をカンと鳴った。八畳では寝つかれぬと覚しく、おりおり高い長大息《ためいき》の気勢《けはい》がする。甲武の貨物列車が凄《すさま》じい地響を立てて、この深夜を独《ひと》り通る。時雄も久しく眠られなかった。
五
翌朝時雄は芳子を自宅に伴った。二人になるより早く、時雄は昨日の消息を知ろうと思っ
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