既に十時半の処を指すのを見て、「それにしてもどうしたんだろう。若い身空で、こう遅くまで一人で出て歩くと言うのは?」
「もう帰って来ますよ」
「こんなことは幾度もあるんですか」
「いいえ、滅多《めった》にありはしませんよ。夏の夜だから、まだ宵の口位に思って歩いているんですよ」
 姉は話しながら裁縫《しごと》の針を止めぬのである。前に鴨脚《いちょう》の大きい裁物板《たちものいた》が据えられて、彩絹《きぬ》の裁片《たちきれ》や糸や鋏《はさみ》やが順序なく四面《あたり》に乱れている。女物の美しい色に、洋燈《ランプ》の光が明かに照り渡った。九月中旬の夜は更《ふ》けて、稍々《やや》肌《はだ》寒く、裏の土手下を甲武の貨物汽車がすさまじい地響を立てて通る。
 下駄の音がする度《たび》に、今度こそは! 今度こそは! と待渡ったが、十一時が打って間もなく、小きざみな、軽い後歯《あとば》の音が静かな夜を遠く響いて来た。
「今度のこそ、芳子さんですよ」
 と姉は言った。
 果してその足音が家の入口の前に留って、がらがらと格子《こうし》が開く。
「芳子さん?」
「ええ」
 と艶《あで》やかな声がする。
 玄関から丈《たけ》の高い庇髪《ひさしがみ》の美しい姿がすっと入って来たが、
「あら、まア、先生!」
 と声を立てた。その声には驚愕《おどろき》と当惑の調子が十分に籠《こも》っていた。
「大変遅くなって……」と言って、座敷と居間との間の閾《しきい》の処に来て、半ば坐って、ちらりと電光のように時雄の顔色《かおつき》を窺《うかが》ったが、すぐ紫の袱紗《ふくさ》に何か包んだものを出して、黙って姉の方に押遣《おしや》った。
「何ですか……お土産《みやげ》? いつもお気の毒ね?」
「いいえ、私も召上るんですもの」
 と芳子は快活に言った。そして次の間へ行こうとしたのを、無理に洋燈《ランプ》の明るい眩《まぶ》しい居間の一隅《かたすみ》に坐らせた。美しい姿、当世流の庇髪《ひさしがみ》、派手なネルにオリイヴ色の夏帯を形よく緊《し》めて、少し斜《はす》に坐った艶やかさ。時雄はその姿と相対して、一種|状《じょう》すべからざる満足を胸に感じ、今までの煩悶《はんもん》と苦痛とを半ば忘れて了った。有力な敵があっても、その恋人をだに占領すれば、それで心の安まるのは恋する者の常態である。
「大変に遅くなって了って……」
 
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