、矢張りまだ帰っていない。
時雄は家に入った。
奥の六畳に通るや否、
「芳さんはどうしました?」
その答より何より、姉は時雄の着物に夥《おびただ》しく泥の着いているのに驚いて、
「まア、どうしたんです、時雄さん」
明かな洋燈《ランプ》の光で見ると、なるほど、白地の浴衣《ゆかた》に、肩、膝《ひざ》、腰の嫌《きら》いなく、夥《おびただ》しい泥痕《どろあと》!
「何アに、其処《そこ》でちょっと転んだものだから」
「だッて、肩まで粘《つ》いているじゃありませんか。また、酔ッぱらったんでしょう」
「何アに……」
と時雄は強《し》いて笑ってまぎらした。
さて時を移さず、
「芳さん、何処に行ったんです」
「今朝、ちょっと中野の方にお友達と散歩に行って来ると行って出たきりですがね、もう帰って来るでしょう。何か用?」
「え、少し……」と言って、「昨日は帰りは遅かったですか」
「いいえ、お友達を新橋に迎えに行くんだって、四時過に出かけて、八時頃に帰って来ましたよ」
時雄の顔を見て、
「どうかしたのですの?」
「何アに……けれどねえ姉さん」と時雄の声は改まった。「実は姉さんにおまかせしておいても、この間の京都のようなことが又あると困るですから、芳子を私の家において、十分監督しようと思うんですがね」
「そう、それは好《い》いですよ。本当に芳子さんはああいうしっかり者だから、私みたいな無教育のものでは……」
「いや、そういう訳でも無いですがね。余り自由にさせ過ぎても、却《かえ》って当人の為にならんですから、一つ家に置いて、十分監督してみようと思うんです」
「それが好いですよ。本当に、芳子さんにもね……何処と悪いことのない、発明な、利口な、今の世には珍らしい方ですけれど、一つ悪いことがあってね、男の友達と平気で夜歩いたりなんかするんですからね。それさえ止すと好いんだけれどとよく言うのですの。すると芳子さんはまた小母さんの旧弊が始まったって、笑っているんだもの。いつかなぞも余り男と一緒に歩いたり何かするものだから、角《かど》の交番でね、不審にしてね、角袖《かくそで》巡査が家の前に立っていたことがあったと云いますよ。それはそんなことは無いんだから、構いはしませんけどもね……」
「それはいつのことです?」
「昨年の暮でしたかね」
「どうもハイカラ過ぎて困る」と時雄は言ったが、時計の針の
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