うというほどの熱烈な心を抱《いだ》いて、華表《とりい》、長い石階《いしだん》、社殿、俳句の懸行燈《かけあんどん》、この常夜燈の三字にはよく見入って物を思ったものだ。その下には依然たる家屋、電車の轟《とどろき》こそおりおり寂寞《せきばく》を破って通るが、その妻の実家の窓には昔と同じように、明かに燈の光が輝いていた。何たる節操なき心ぞ、僅《わず》かに八年の年月を閲《けみ》したばかりであるのに、こうも変ろうとは誰が思おう。その桃割姿を丸髷姿《まるまげすがた》にして、楽しく暮したその生活がどうしてこういう荒涼たる生活に変って、どうしてこういう新しい恋を感ずるようになったか。時雄は我ながら時の力の恐ろしいのを痛切に胸に覚えた。けれどその胸にある現在の事実は不思議にも何等の動揺をも受けなかった。
「矛盾でもなんでも為方《しかた》がない、その矛盾、その無節操、これが事実だから為方がない、事実! 事実!」
と時雄は胸の中に繰返した。
時雄は堪え難い自然の力の圧迫に圧せられたもののように、再び傍のロハ台に長い身を横えた。ふと見ると、赤銅《しゃくどう》のような色をした光芒《ひかり》の無い大きな月が、お濠《ほり》の松の上に音も無く昇っていた。その色、その状《かたち》、その姿がいかにも侘《わび》しい。その侘しさがその身の今の侘しさによく適《かな》っていると時雄は思って、また堪え難い哀愁がその胸に漲《みなぎ》り渡った。
酔は既に醒《さ》めた。夜露は置始めた。
土手三番町の家の前に来た。
覗《のぞ》いてみたが、芳子の室に燈火の光が見えぬ。まだ帰って来ぬとみえる。時雄の胸はまた燃えた。この夜、この暗い夜に恋しい男と二人! 何をしているか解らぬ。こういう常識を欠いた行為を敢《あえ》てして、神聖なる恋とは何事? 汚れたる行為の無いのを弁明するとは何事?
すぐ家に入ろうとしたが、まだ当人が帰っておらぬのに上っても為方が無いと思って、その前を真直《まっすぐ》に通り抜けた。女と摩違《すれちが》う度《たび》に、芳子ではないかと顔を覗きつつ歩いた。土手の上、松の木蔭、街道の曲り角、往来の人に怪まるるまで彼方此方《あっちこっち》を徘徊《はいかい》した。もう九時、十時に近い。いかに夏の夜であるからと言って、そう遅くまで出歩いている筈《はず》が無い。もう帰ったに相違ないと思って、引返して姉の家に行ったが
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