飲んだ。もう酔は余程廻ったらしい。顔の色は赤銅色《しゃくどういろ》に染って眼が少しく据っていた。急に立上って、
「おい、帯を出せ!」
「何処《どこ》へいらっしゃる」
「三番町まで行って来る」
「姉の処?」
「うむ」
「およしなさいよ、危《あぶ》ないから」
「何アに大丈夫だ、人の娘を預って監督せずに投遣《なげやり》にしてはおかれん。男がこの東京に来て一緒に歩いたり何かしているのを見ぬ振をしてはおかれん。田川(姉の家の姓)に預けておいても不安心だから、今日、行って、早かったら、芳子を家に連れて来る。二階を掃除しておけ」
「家に置くんですか、また……」
「勿論《もちろん》」
細君は容易に帯と着物とを出そうともせぬので、
「よし、よし、着物を出さんのなら、これで好い」と、白地の単衣《ひとえ》に唐縮緬《とうちりめん》の汚れたへこ[#「へこ」に傍点]帯、帽子も被《かぶ》らずに、そのままに急いで戸外へ出た。「今出しますから……本当に困って了う」という細君の声が後に聞えた。
夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来の酒井の森には烏《からす》の声が喧《やかま》しく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい鰌髭《どじょうひげ》の紳士が庇髪《ひさしがみ》の若い細君を伴《つ》れて、神楽坂《かぐらざか》に散歩に出懸けるのにも幾組か邂逅《でっくわ》した。時雄は激昂《げっこう》した心と泥酔した身体とに烈《はげ》しく漂わされて、四辺《あたり》に見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動くよう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上に蔽《おお》い冠《かぶ》さるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、無闇《むやみ》にぐいぐいと呷《あお》ったので、一時に酔が発したのであろう。ふと露西亜《ロシア》の賤民《せんみん》の酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだから豪《えら》い、惑溺《わくでき》するなら飽《あく》まで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。
中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣《ゆかた》がぞろぞろと通る。煙草屋《たばこや》の前に若い細君が出ている。氷屋の暖簾《
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