は何だ! 何故《なぜ》私とは書かぬ、何故複数を用いた? 時雄の胸は嵐《あらし》のように乱れた。着いたのは昨日の六時、姉の家に行って聞き糺《ただ》せば昨夜何時頃に帰ったか解るが、今日はどうした、今はどうしている?
細君の心を尽した晩餐《ばんさん》の膳《ぜん》には、鮪《まぐろ》の新鮮な刺身に、青紫蘇《あおじそ》の薬味を添えた冷豆腐《ひややっこ》、それを味う余裕もないが、一盃《いっぱい》は一盃と盞《さかずき》を重ねた。
細君は末の児を寝かして、火鉢の前に来て坐ったが、芳子の手紙の夫の傍にあるのに眼を附けて、
「芳子さん、何て言って来たのです?」
時雄は黙って手紙を投げて遣《や》った、細君はそれを受取りながら、夫の顔をじろりと見て、暴風の前に来る雲行の甚だ急なのを知った。
細君は手紙を読終って巻きかえしながら、
「出て来たのですね」
「うむ」
「ずっと東京に居るんでしょうか」
「手紙に書いてあるじゃないか、すぐ帰すッて……」
「帰るでしょうか」
「そんなこと誰が知るものか」
夫の語気が烈《はげ》しいので、細君は口を噤《つぐ》んで了った。少時《しばらく》経《た》ってから、
「だから、本当に厭《いや》さ、若い娘の身で、小説家になるなんぞッて、望む本人も本人なら、よこす親達も親達ですからね」
「でも、お前は安心したろう」と言おうとしたが、それは止《よ》して、
「まア、そんなことはどうでも好いさ、どうせお前達には解らんのだから……それよりも酌でもしたらどうだ」
温順な細君は徳利を取上げて、京焼の盃《さかずき》に波々と注ぐ。
時雄は頻《しき》りに酒を呷《あお》った。酒でなければこの鬱《うつ》を遣るに堪えぬといわぬばかりに。三本目に、妻は心配して、
「この頃はどうか為ましたね」
「何故?」
「酔ってばかりいるじゃありませんか」
「酔うということがどうかしたのか」
「そうでしょう、何か気に懸ることがあるからでしょう。芳子さんのことなどはどうでも好いじゃありませんか」
「馬鹿!」
と時雄は一|喝《かつ》した。
細君はそれにも懲りずに、
「だって、余り飲んでは毒ですよ、もう好い加減になさい、また手水場《ちょうずば》にでも入って寝ると、貴郎《あなた》は大きいから、私と、お鶴(下女)の手ぐらいではどうにもなりやしませんからさ」
「まア、好いからもう一本」
で、もう一本を半分位
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