一兵卒
田山花袋
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)渠《かれ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)支那|苦力《クーリー》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、142−7]
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渠《かれ》は歩き出した。
銃が重い、背嚢《はいのう》が重い、脚《あし》が重い、アルミニウム製の金椀《かなわん》が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟《しげき》するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭《いや》になってしまった。
病気はほんとうに治ったのでないから、息が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1−94−6、142−7]《こめかみ》がはげしい脈を打つ。なぜ、病院を出た? 軍医があとがたいせつだと言ってあれほど留めたのに、なぜ病院を出た? こう思ったが、渠はそれを悔いはしなかった。敵の捨てて遁《に》げた汚《きたな》い洋館の板敷き、八畳くらいの室《へや》に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽《すいたい》と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじい蠅《はえ》の群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯の粥《かゆ》に少しばかりの食塩、よくあれでも飢餓を凌《しの》いだ。かれは病院の背後の便所を思い出してゾッとした。急造の穴の掘りようが浅いので、臭気が鼻と眼とをはげしく撲《う》つ。蠅がワンと飛ぶ。石灰の灰色に汚《よご》れたのが胸をむかむかさせる。
あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々《ひろびろ》とした野の方がいい。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠《こうばく》として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱《こうりゃん》が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。さっきの汽車がまだあそこにいる。釜《かま》のない煙筒のない長い汽車を、支那|苦力《クーリー》が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻《あり》が大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押していく。
夕日が画のように斜めにさし渡った。
さっきの下士があそこに乗っている。あの一段高い米の叺《かます》の積み荷の上に突っ立っているのが彼奴《きゃつ》だ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站《あんざんたん》まで乗せていってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩兵が車に乗るという法があるかとどなった。病気だ、ご覧の通りの病気で、脚気《かっけ》をわずらっている。鞍山站の先まで行けば隊がいるに相違ない。武士は相見互いということがある、どうか乗せてくれッて、たって頼んでも、言うことを聞いてくれなかった。兵、兵といって、筋が少ないとばかにしやがる。金州でも、得利寺でも兵のおかげで戦争に勝ったのだ。馬鹿奴《ばかめ》、悪魔奴!
蟻だ、蟻だ、ほんとうに蟻だ。まだあそこにいやがる。汽車もああなってはおしまいだ。ふと汽車――豊橋を発《た》ってきた時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められている。万歳の声が長く長く続く。と忽然《こつぜん》最愛の妻の顔が眼に浮かぶ。それは門出の時の泣き顔ではなく、どうした場合であったか忘れたが心からかわいいと思った時の美しい笑い顔だ。母親がお前もうお起きよ、学校が遅《おそ》くなるよと揺り起こす。かれの頭はいつか子供の時代に飛び返っている。裏の入江の船の船頭が禿頭《はげあたま》を夕日にてかてかと光らせながら子供の一群に向かってどなっている。その子供の群れの中にかれもいた。
過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画《くかく》を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。
褐色の道路――砲車の轍《わだち》や靴《くつ》の跡や草鞋《わらじ》の跡が深く印したままに石のように乾いて固くなった路《みち》が前に長く通じている。こういう満州の道路にはかれはほとんど愛想をつかしてしまった。どこまで行ったらこの路はなくなるのか。どこまで行ったらこんな路は歩かなくってもよくなるのか。故郷のいさご路《じ》、雨上がりの湿った海岸の砂路《いさごじ》、あの滑《なめ》らかな心地の好い路が懐《なつか》しい。広い大きい道ではあるが、一つとして滑らかな平らかなところがない。これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛《すね》もその半ばを没してしまうのだ。大石橋《だいせっきょう》の戦争の前の晩、暗い闇《やみ》の泥濘《でいねい》を三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥って少しも動かぬのを押して押して押し通した。第三|聯隊《れんたい》の砲車が先に出て陣地を占領してしまわなければ明日の戦いはできなかったのだ。そして終夜働いて、翌日はあの戦争。敵の砲弾、味方の砲弾がぐんぐんと厭な音を立てて頭の上を鳴って通った。九十度近い暑い日が脳天からじりじりと照りつけた。四時過ぎに、敵味方の歩兵はともに接近した。小銃の音が豆を煎《い》るように聞こえる。時々シュッシュッと耳のそばを掠《かす》めていく。列の中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日に彩《いろど》られて、その兵士はガックリ前に※[#「※」は「あしへん」に「倍」のつくり、第3水準1−92−37、144−18]《のめ》った。胸に弾丸があたったのだ。その兵士は善い男だった。快活で、洒脱《しゃだつ》で、何ごとにも気が置けなかった。新城町《しんしろまち》のもので、若い嚊《かかあ》があったはずだ。上陸当座はいっしょによく徴発に行ったっけ。豚を逐《お》い廻《まわ》したッけ。けれどあの男はもはやこの世の中にいないのだ。いないとはどうしても思えん。思えんがいないのだ。
褐色の道路を、糧餉《ひょうろう》を満載した車がぞろぞろ行く。騾車《らしゃ》、驢車《ろしゃ》、支那人の爺《おやじ》のウオウオウイウイが聞こえる。長い鞭《むち》が夕日に光って、一種の音を空気に伝える。路の凸凹《でこぼこ》がはげしいので、車は波を打つようにしてガタガタ動いていく。苦しい、息が苦しい。こう苦しくってはしかたがない。頼んで乗せてもらおうと思ってかれは駆け出した。
金椀がカタカタ鳴る。はげしく鳴る。背嚢の中の雑品や弾丸袋の弾丸がけたたましく躍《おど》り上がる。銃の台が時々|脛《すね》を打って飛び上がるほど痛い。
「オーい、オーい」
声が立たない。
「オーい、オーい」
全身の力を絞って呼んだ。聞こえたに相違ないが振り向いてもみない。どうせ碌《ろく》なことではないと知っているのだろう。一時思い止《と》まったが、また駆け出した。そして今度はその最後の一輌《いちりょう》にようやく追い着いた。
米の叺が山のように積んである。支那人の爺が振り向いた。丸顔の厭な顔だ。有無をいわせずその車に飛び乗った。そして叺と叺との間に身を横たえた。支那人はしかたがないというふうでウオーウオーと馬を進めた。ガタガタと車は行く。
頭脳がぐらぐらして天地が廻転《かいてん》するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚の腓《ふくらはぎ》のところが押しつけられるようで、不愉快で不愉快でしかたがない。ややともすると胸がむかつきそうになる。不安の念がすさまじい力で全身を襲った。と同時に、恐ろしい動揺がまた始まって、耳からも頭からも、種々の声が囁《ささや》いてくる。この前にもこうした不安はあったが、これほどではなかった。天にも地にも身の置きどころがないような気がする。
野から村に入ったらしい。鬱蒼《こんもり》とした楊《やなぎ》の緑がかれの上に靡《なび》いた。楊樹《やなぎ》にさし入った夕日の光が細かな葉を一葉一葉明らかに見せている。不恰好《ぶかっこう》な低い屋根が地震でもあるかのように動揺しながら過ぎていく。ふと気がつくと、車は止まっていた。かれは首を挙《あ》げてみた。
楊樹の蔭《かげ》を成しているところだ。車輛《くるま》が五台ほど続いているのを見た。
突然肩を捉えるものがある。
日本人だ、わが同胞だ、下士だ。
「貴様はなんだ?」
かれは苦しい身を起こした。
「どうしてこの車に乗った?」
理由を説明するのがつらかった。いや口をきくのも厭なのだ。
「この車に乗っちゃいかん。そうでなくってさえ、荷が重すぎるんだ。お前は十八聯隊だナ。豊橋だナ」
うなずいてみせる。
「どうかしたのか」
「病気で、昨日まで大石橋の病院にいたものですから」
「病気がもう治《なお》ったのか」
無意味にうなずいた。
「病気でつらいだろうが、おりてくれ。急いで行かんけりゃならんのだから。遼陽《りょうよう》が始まったでナ」
「遼陽!」
この一語はかれの神経を十分に刺戟した。
「もう始まったですか」
「聞こえんかあの砲が……」
さっきから、天末に一種のとどろきが始まったそうなとは思ったが、まだ遼陽ではないと思っていた。
「鞍山站《あんざんたん》は落ちたですか」
「一昨日《おととい》落ちた。敵は遼陽の手前で、一防禦《ひとふせぎ》やるらしい。今日の六時から始まったという噂《うわさ》だ!」
一種の遠いかすかなるとどろき、仔細《しさい》に聞けばなるほど砲声だ。例の厭な音が頭上を飛ぶのだ。歩兵隊がその間を縫って進撃するのだ。血汐《ちしお》が流れるのだ。こう思った渠は一種の恐怖と憧憬《どうけい》とを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している。
修羅《しゅら》の巷《ちまた》が想像される。炸弾《さくだん》の壮観も眼前に浮かぶ。けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いているばかり、大軍の潮のごとく過ぎ去った村の平和はいつもに異ならぬ。
「今度の戦争は大きいだろう」
「そうさ」
「一日では勝敗がつくまい」
「むろんだ」
今の下士は夥伴《なかま》の兵士と砲声を耳にしつつしきりに語り合っている。糧餉を満載した車五輛、支那苦力の爺連《おやじれん》も圏《わ》をなして何ごとをかしゃべり立てている。驢馬の長い耳に日がさして、おりおりけたたましい啼《な》き声が耳を劈《つんざ》く。楊樹の彼方《かなた》に白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中に槐《えんじゅ》の樹《き》が高く見える。井戸がある。納屋《なや》がある。足の小さい年老いた女がおぼつかなく歩いていく。楊樹を透かして向こうに、広い荒漠たる野が見える。褐色した丘陵の連続が指さされる。その向こうには紫色がかった高い山が蜿蜒《えんえん》としている。砲声はそこから来る。
五輛の車は行ってしまった。
渠《かれ》はまた一人取り残された。海城から東煙台、甘泉堡《かんせんほう》、この次の兵站部《へいたんぶ》所在地は新台子といって、まだ一里くらいある。そこまで行かなければ宿るべき家もない。
行くことにして歩き出した。
疲れ切っているから難儀だが、車よりはかえっていい。胸は依然として苦しいが、どうもいたしかたがない。
また同じ褐色の路、同じ高粱《コーリャン》の畑、同じ夕日の光、レールには例の汽車がまた通った。今度は下り坂で、速力が非常に早い。釜《かま》のついた汽車よりも早いくらいに目まぐろしく谷を越えて駛《はし》った。最後の車輛に翻《ひるがえ》った国旗が高粱畑の絶え間絶え間に見えたり隠れたりして、ついにそれが見えなくなっても、その車輛のとどろきは聞こえる。そのとどろきと交じって、砲声が間断なしに響く。
街道には久しく村落がないが、西方には楊樹のやや暗い繁茂《しげり》がいたるところに
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