かたまって、その間からちらちら白色褐色の民家が見える。人の影はあたりを見まわしてもないが、青い細い炊煙は糸のように淋《さび》しく立ち※[#「※」は「風+易」、第3水準1−94−7、149−10]《あ》がる。
夕日は物の影をすべて長く曳《ひ》くようになった。高粱の高い影は二間幅の広い路を蔽《おお》って、さらに向こう側の高粱の上に蔽い重なった。路傍の小さな草の影もおびただしく長く、東方の丘陵は浮き出すようにはっきりと見える。さびしい悲しい夕暮れは譬《たと》え難い一種の影の力をもって迫ってきた。
高粱の絶えたところに来た。忽然《こつぜん》、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。
草叢《くさむら》には虫の声がする。故郷の野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つかぬことと広い野原とがなんとなくその胸を痛めた。一時とだえた追懐の情が流るるように漲《みなぎ》ってきた。
母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走馬燈のごとく旋回する。欅《けやき》の樹で囲まれた村の旧家、団欒《だんらん》せる平和な家庭、続いてその身が東京に修業に行ったおりの若々しさが憶《おも》い出される。神楽坂《かぐらざか》の夜の賑《にぎわ》いが眼に見える。美しい草花、雑誌店、新刊の書、角を曲がると賑やかな寄席《よせ》、待合、三味線《しゃみせん》の音、仇《あだ》めいた女の声、あのころは楽しかった。恋した女が仲町にいて、よく遊びに行った。丸顔のかわいい娘で、今でも恋しい。この身は田舎《いなか》の豪家の若旦那《わかだんな》で、金には不自由を感じなかったから、ずいぶんおもしろいことをした。それにあのころの友人は皆世に出ている。この間も蓋平《がいへい》で第六師団の大尉になっていばっている奴に邂逅《でっくわ》した。
軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。と、今日は不思議にも平生の様に反抗とか犠牲とかいう念は起こらずに、恐怖の念が盛んに燃えた。出発の時、この身は国に捧げ君に捧げて遺憾《いかん》がないと誓った。再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋《がいせん》を夢みていた。であるのに、今忽然起こったのは死に対する不安である。自分はとても生きて還《かえ》ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝《つ》いた。この病、この脚気、たといこの病は治ったにしても戦場は大なる牢獄である。いかにもがいても焦《あせ》ってもこの大なる牢獄から脱することはできぬ。得利寺で戦死した兵士がその以前かれに向かって
「どうせ遁《のが》れられぬ穴だ。思い切りよく死ぬサ」と言ったことを思い出した。
かれは疲労と病気と恐怖とに襲われて、いかにしてこの恐ろしい災厄を遁《のが》るべきかを考えた。脱走? それもいい、けれど捕えられた暁には、この上もない汚名をこうむったうえに同じく死! さればとて前進すれば必ず戦争の巷《ちまた》の人とならなければならぬ。戦争の巷に入れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今始めて、病院を退院したことの愚をひしと胸に思い当たった。病院から後送されるようにすればよかった……と思った。
もうだめだ、万事休す、遁れるに路《みち》がない。消極的の悲観が恐ろしい力でその胸を襲った。と、歩く勇気も何もなくなってしまった。とめどなく涙が流れた。神がこの世にいますなら、どうか救《たす》けてください、どうか遁路《にげみち》を教えてください。これからはどんな難儀もする! どんな善事もする! どんなことにも背《そむ》かぬ。
渠《かれ》はおいおい声を挙《あ》げて泣き出した。
胸が間断《ひっきり》なしに込み上げてくる。涙は小児でもあるように頬《ほお》を流れる。自分の体がこの世の中になくなるということが痛切に悲しいのだ。かれの胸にはこれまで幾度も祖国を思うの念が燃えた。海上の甲板《かんぱん》で、軍歌を歌った時には悲壮の念が全身に充《み》ち渡った。敵の軍艦が突然出てきて、一砲弾のために沈められて、海底の藻屑《もくず》となっても遺憾がないと思った。金州の戦場では、機関銃の死の叫びのただ中を地に伏しつつ、勇ましく進んだ。戦友の血に塗《まみ》れた姿に胸を撲《う》ったこともないではないが、これも国のためだ、名誉だと思った。けれど人の血の流れたのは自分の血の流れたのではない。死と相面《あいめん》しては、いかなる勇者も戦慄《せんりつ》する。
脚が重い、けだるい、胸がむかつく。大石橋から十里、二日の路、夜露、悪寒《おかん》、確かに持病の脚気《かっけ》が昂進《こうしん》したのだ。流行腸胃熱は治《なお》ったが、急性の脚気が襲ってきたのだ。脚気衝心の恐ろしいことを自覚してかれは戦慄した。どうしても免れることができぬのかと思った。と、いても立ってもいられなくなって、体がしびれて脚がすくんだ――おいおい泣きながら歩く。
野は平和である。赤い大きい日は地平線上に落ちんとして、空は半ば金色半ば暗碧色《あんへきしょく》になっている。金色《こんじき》の鳥の翼のような雲が一片《ひとひら》動いていく。高粱の影は影と蔽い重なって、荒涼たる野には秋風が渡った。遼陽《りょうよう》方面の砲声も今まで盛んに聞こえていたが、いつか全くとだえてしまった。
二人連れの上等兵が追い越した。
すれ違って、五、六間先に出たが、ひとりが戻ってきた。
「おい、君、どうした?」
かれは気がついた。声を挙げて泣いて歩いていたのが気恥ずかしかった。
「おい、君?」
再び声はかかった。
「脚気なもんですから」
「脚気?」
「はア」
「それは困るだろう。よほど悪いのか」
「苦しいです」
「それア困ったナ、脚気では衝心でもすると大変だ。どこまで行くんだ」
「隊が鞍山站《あんざんたん》の向こうにいるだろうと思うんです」
「だって、今日そこまで行けはせん」
「はア」
「まア、新台子まで行くさ。そこに兵站部があるから行って医師に見てもらうさ」
「まだ遠いですか?」
「もうすぐそこだ。それ向こうに丘が見えるだろう。丘の手前に鉄道線路があるだろう。そこに国旗が立っている、あれが新台子の兵站部だ」
「そこに医師がいるでしょうか」
「軍医が一人いる」
蘇生《そせい》したような気がする。
で、二人に跟《つ》いて歩いた。二人は気の毒がって、銃と背嚢《はいのう》とを持ってくれた。
二人は前に立って話しながら行く。遼陽の今日の戦争の話である。
「様子はわからんかナ」
「まだやってるんだろう。煙台で聞いたが、敵は遼陽の一里手前で一支《ひとささ》えしているそうだ。なんでも首山堡《しゅざんぽ》とか言った」
「後備がたくさん行くナ」
「兵が足りんのだ。敵の防禦《ぼうぎょ》陣地はすばらしいものだそうだ」
「大きな戦争になりそうだナ」
「一日砲声がしたからナ」
「勝てるかしらん」
「負けちゃ大変だ」
「第一軍も出たんだろうナ」
「もちろんさ」
「ひとつうまく背後を断《た》ってやりたい」
「今度はきっとうまくやるよ」
と言って耳を傾けた。砲声がまた盛んに聞こえ出した。
新台子の兵站部は今|雑沓《ざっとう》を極めていた。後備旅団の一箇聯隊《いっこれんたい》が着いたので、レールの上、家屋の蔭《かげ》、糧餉《ひょうろう》のそばなどに軍帽と銃剣とがみちみちていた。レールを挾《はさ》んで敵の鉄道援護の営舎が五棟ほど立っているが、国旗の翻《ひるがえ》った兵站本部は、雑沓を重ねて、兵士が黒山のように集まって、長い剣を下げた士官が幾人となく出たり入ったりしている。兵站部の三箇の大釜《おおがま》には火が盛んに燃えて、煙が薄暮の空に濃く靡《なび》いていた。一箇の釜は飯が既に炊《た》けたので、炊事軍曹が大きな声を挙げて、部下を叱※[#「※」は「口+它」、第3水準1−14−88、154−13]《しった》して、集まる兵士にしきりに飯の分配をやっている。けれどこの三箇の釜はとうていこの多数の兵士に夕飯を分配することができぬので、その大部分は白米を飯盒《はんごう》にもらって、各自に飯を作るべく野に散った。やがて野のところどころに高粱の火が幾つとなく燃された。
家屋《いえ》の彼方《かなた》では、徹夜して戦場に送るべき弾薬弾丸の箱を汽車の貨車に積み込んでいる。兵士、輸卒の群れが一生懸命に奔走しているさまが薄暮のかすかな光に絶え絶えに見える。一人の下士が貨車の荷物の上に高く立って、しきりにその指揮をしていた。
日が暮れても戦争は止《や》まぬ。鞍山站の馬鞍《ばあん》のような山が暗くなって、その向こうから砲声が断続する。
渠《かれ》はここに来て軍医をもとめた。けれど軍医どころの騒ぎではなかった。一兵卒が死のうが生きようがそんなことを問う場合ではなかった。渠は二人の兵士の尽力のもとに、わずかに一盒《いちごう》の飯を得たばかりであった。しかたがない、少し待て。この聯隊の兵が前進してしまったら、軍医をさがして、伴《つ》れていってやるから、まず落ち着いておれ。ここからまっすぐに三、四町行くと一棟の洋館がある。その洋館の入り口には、酒保《しゅほ》が今朝から店を開いているからすぐわかる。その奥に入って、寝ておれとのことだ。
渠はもう歩く勇気はなかった。銃と背嚢《はいのう》とを二人から受け取ったが、それを背負うと危《あぶな》く倒れそうになった。眼がぐらぐらする。胸がむかつく。脚がけだるい。頭脳ははげしく旋回する。
けれどここに倒れるわけにはいかない。死ぬにも隠れ家を求めなければならぬ。そうだ、隠れ家……。どんなところでもいい。静かな処に入って寝たい、休息したい。
闇《やみ》の路《みち》が長く続く。ところどころに兵士が群れを成している。ふと豊橋《とよはし》の兵営を憶い出した。酒保に行って隠れてよく酒を飲んだ。酒を飲んで、軍曹をなぐって、重営倉に処せられたことがあった。路がいかにも遠い。行っても行っても洋館らしいものが見えぬ。三、四町と言った。三、四町どころか、もう十町も来た。間違ったのかと思って振り返る――兵站部は燈火の光、篝火《かがりび》の光、闇の中を行き違う兵士の黒い群れ、弾薬箱を運ぶかけ声が夜の空気を劈《つんざ》いて響く。
ここらはもう静かだ。あたりに人の影も見えない。にわかに苦しく胸が迫ってきた。隠れ家がなければ、ここで死ぬのだと思って、がっくり倒れた。けれども不思議にも前のように悲しくもない、思い出もない。空の星の閃《ひらめ》きが眼に入った。首を挙《あ》げてそれとなくあたりを※[#「※」は「目+旬」、第3水準1−88−80、156−3]《みまわ》した。
今まで見えなかった一棟の洋館がすぐその前にあるのに驚いた。家の中には燈火が見える。丸い赤い提燈《ちょうちん》が見える。人の声が耳に入る。
銃を力にかろうじて立ち上がった。
なるほど、その家屋の入り口に酒保らしいものがある。暗いからわからぬが、何か釜らしいものが戸外の一隅《かたすみ》にあって、薪《まき》の余燼《もえさし》が赤く見えた。薄い煙が提燈を掠《かす》めて淡く靡いている。提燈に、しるこ一杯五銭と書いてあるのが、胸が苦しくって苦しくってしかたがないにもかかわらずはっきりと眼に映じた。
「しるこはもうお終《しま》いか」
と言ったのは、その前に立っている一人の兵士であった。
「もうお終いです」
という声が戸内《うち》から聞こえる。
戸内を覗《のぞ》くと、明らかな光、西洋|蝋燭《ろうそく》が二本裸で点《とも》っていて、罎詰《びんづめ》や小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、肥《ふと》った、口髭《くちひげ》の濃い、にこにこした三十男がすわっていた。店では一人の兵士がタオルを展《ひろ》げて見ていた。
そばを見ると、暗いながら、低い石階《いしだん》が眼に入った。ここだなとかれは思った。とに
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