がかれのポケットを探った。軍隊手帖を引き出すのがわかる。かれの眼にはその兵士の黒く逞《たくま》しい顔と軍隊手帖を読むために卓上の蝋燭に近く歩み寄ったさまが映った。三河国渥美郡《みかわのくにあつみぐん》福江村加藤平作……と読む声が続いて聞こえた。故郷のさまが今一度その眼前に浮かぶ。母の顔、妻の顔、欅《けやき》で囲んだ大きな家屋、裏から続いた滑《なめ》らかな磯《いそ》、碧《あお》い海、なじみの漁夫の顔……。
 二人は黙って立っている。その顔は蒼く暗い。おりおりその身に対する同情の言葉が交される。彼は既に死を明らかに自覚していた。けれどそれが別段苦しくも悲しくも感じない。二人の問題にしているのはかれ自身のことではなくて、ほかに物体があるように思われる。ただ、この苦痛、堪え難いこの苦痛から脱《のが》れたいと思った。
 蝋燭がちらちらする。蟋蟀が同じくさびしく鳴いている。

 黎明《あけがた》に兵站部の軍医が来た。けれどその一時間前に、渠は既に死んでいた。一番の汽車が開路開路のかけ声とともに、鞍山站に向かって発車したころは、その残月が薄く白けて淋《さび》しく空にかかっていた。
 しばらくして砲声
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