を悔いはしなかった。敵の捨てて遁《に》げた汚《きたな》い洋館の板敷き、八畳くらいの室《へや》に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽《すいたい》と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじい蠅《はえ》の群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯の粥《かゆ》に少しばかりの食塩、よくあれでも飢餓を凌《しの》いだ。かれは病院の背後の便所を思い出してゾッとした。急造の穴の掘りようが浅いので、臭気が鼻と眼とをはげしく撲《う》つ。蠅がワンと飛ぶ。石灰の灰色に汚《よご》れたのが胸をむかむかさせる。
 あれよりは……あそこにいるよりは、この闊々《ひろびろ》とした野の方がいい。どれほど好いかしれぬ。満洲の野は荒漠《こうばく》として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱《こうりゃん》が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。さっきの汽車がまだあそこにいる。釜《かま》のない煙筒のない長い汽車を、支那|苦力《クーリー》が幾百人となく寄ってたかって、ちょうど蟻《あり》が大きな獲物を運んでいくように、えっさらおっさら押してい
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