かく休息することができると思うと、言うに言われぬ満足をまず心に感じた。静かにぬき足してその石階を登った。中は暗い。よくわからぬが廊下になっているらしい。最初の戸と覚しきところを押してみたが開かない。二歩三歩進んで次の戸を押したがやはり開かない。左の戸を押してもだめだ。
 なお奥へ進む。
 廊下は突き当たってしまった。右にも左にも道がない。困って右を押すと、突然、闇が破れて扉《とびら》があいた。室内が見えるというほどではないが、そことなく星明りがして、前にガラス窓があるのがわかる。
 銃を置き、背嚢をおろし、いきなりかれは横に倒れた。そして重苦しい息をついた。まアこれで安息所を得たと思った。
 満足とともに新しい不安が頭を擡《もた》げてきた。倦怠《けんたい》、疲労、絶望に近い感情が鉛のごとく重苦しく全身を圧した。思い出が皆|片々《きれぎれ》で、電光のように早いかと思うと牛の喘歩《あえぎ》のように遅《おそ》い。間断なしに胸が騒ぐ。
 重い、けだるい脚が一種の圧迫を受けて疼痛《とうつう》を感じてきたのは、かれみずからにもよくわかった。腓《ふくらはぎ》のところどころがずきずきと痛む。普通の疼痛ではなく、ちょうどこむらが反《かえ》った時のようである。
 自然と身体《からだ》をもがかずにはいられなくなった。綿のように疲れ果てた身でも、この圧迫にはかなわない。
 無意識に輾転反側《てんてんはんそく》した。
 故郷のことを思わぬではない、母や妻のことを悲しまぬではない。この身がこうして死ななければならぬかと嘆かぬではない。けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そんなものはどうでもよい。疼痛、疼痛、その絶大な力と戦わねばならぬ。
 潮のように押し寄せる。暴風のように荒れわたる。脚を固い板の上に立てて倒して、体を右に左にもがいた。「苦しい……」と思わず知らず叫んだ。
 けれど実際はまたそう苦しいとは感じていなかった。苦しいには違いないが、さらに大なる苦痛に耐えなければならぬと思う努力が少なくともその苦痛を軽くした。一種の力は波のように全身に漲った。
 死ぬのは悲しいという念よりもこの苦痛に打《う》ち克《か》とうという念の方が強烈であった。一方にはきわめて消極的な涙もろい意気地《いくじ》ない絶望が漲るとともに、一方には人間の生存に対する権利というような積極的な力が強く横たわった。
 疼痛は波のように押し寄せては引き、引いては押し寄せる。押し寄せるたびに脣《くちびる》を噛《か》み、歯をくいしばり、脚を両手でつかんだ。
 五官のほかにある別種の官能の力が加わったかと思った。暗かった室《へや》がそれとはっきり見える。暗色の壁に添うて高いテーブルが置いてある。上に白いのは確かに紙だ。ガラス窓の半分が破れていて、星がきらきらと大空にきらめいているのが認められた。右の一隅には、何かごたごた置かれてあった。
 時間の経《た》っていくのなどはもうかれにはわからなくなった。軍医が来てくれればいいと思ったが、それを続けて考える暇はなかった。新しい苦痛が増した。
 床近く蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。苦痛に悶《もだ》えながら、「あ、蟋蟀が鳴いている……」とかれは思った。その哀切な虫の調べがなんだか全身に沁《し》み入るように覚えた。
 疼痛、疼痛、かれはさらに輾転反側した。

 「苦しい! 苦しい! 苦しい!」
 続けざまにけたたましく叫んだ。
 「苦しい、誰か……誰かおらんか」
 としばらくしてまた叫んだ。
 強烈なる生存の力ももうよほど衰えてしまった。意識的に救助を求めると言うよりは、今はほとんど夢中である。自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪《なみ》の叫び、人間の悲鳴!
 「苦しい! 苦しい!」
 その声がしんとした室にすさまじく漂い渡る。この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥《きが》していた。日本兵が始めて入った時、壁には黒く煤《すす》けたキリストの像がかけてあった。昨年の冬は、満州の野に降りしきる風雪をこのガラス窓から眺《なが》めて、その士官はウォツカを飲んだ。毛皮の防寒服を着て、戸外に兵士が立っていた。日本兵のなすに足らざるを言って、虹《にじ》のごとき気焔《きえん》を吐いた。その室に、今、垂死の兵士の叫喚《うめき》が響き渡る。
 「苦しい、苦しい、苦しい!」
 寂としている。蟋蟀は同じやさしいさびしい調子で鳴いている。満洲の広漠《こうばく》たる野には、遅い月が昇ったと見えて、あたりが明るくなって、ガラス窓の外は既にその光を受けていた。
 叫喚、悲鳴、絶望、渠《かれ》は室の中をのたうちまわった。軍服のボタンは外《はず》れ、胸の辺はかきむしられ、軍帽は頷紐《あごひも》をかけたまま押し潰《つぶ》され、顔から頬にかけては、嘔吐《おうと》した汚物が一面に附着した。
 突然
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