」
と言って耳を傾けた。砲声がまた盛んに聞こえ出した。
新台子の兵站部は今|雑沓《ざっとう》を極めていた。後備旅団の一箇聯隊《いっこれんたい》が着いたので、レールの上、家屋の蔭《かげ》、糧餉《ひょうろう》のそばなどに軍帽と銃剣とがみちみちていた。レールを挾《はさ》んで敵の鉄道援護の営舎が五棟ほど立っているが、国旗の翻《ひるがえ》った兵站本部は、雑沓を重ねて、兵士が黒山のように集まって、長い剣を下げた士官が幾人となく出たり入ったりしている。兵站部の三箇の大釜《おおがま》には火が盛んに燃えて、煙が薄暮の空に濃く靡《なび》いていた。一箇の釜は飯が既に炊《た》けたので、炊事軍曹が大きな声を挙げて、部下を叱※[#「※」は「口+它」、第3水準1−14−88、154−13]《しった》して、集まる兵士にしきりに飯の分配をやっている。けれどこの三箇の釜はとうていこの多数の兵士に夕飯を分配することができぬので、その大部分は白米を飯盒《はんごう》にもらって、各自に飯を作るべく野に散った。やがて野のところどころに高粱の火が幾つとなく燃された。
家屋《いえ》の彼方《かなた》では、徹夜して戦場に送るべき弾薬弾丸の箱を汽車の貨車に積み込んでいる。兵士、輸卒の群れが一生懸命に奔走しているさまが薄暮のかすかな光に絶え絶えに見える。一人の下士が貨車の荷物の上に高く立って、しきりにその指揮をしていた。
日が暮れても戦争は止《や》まぬ。鞍山站の馬鞍《ばあん》のような山が暗くなって、その向こうから砲声が断続する。
渠《かれ》はここに来て軍医をもとめた。けれど軍医どころの騒ぎではなかった。一兵卒が死のうが生きようがそんなことを問う場合ではなかった。渠は二人の兵士の尽力のもとに、わずかに一盒《いちごう》の飯を得たばかりであった。しかたがない、少し待て。この聯隊の兵が前進してしまったら、軍医をさがして、伴《つ》れていってやるから、まず落ち着いておれ。ここからまっすぐに三、四町行くと一棟の洋館がある。その洋館の入り口には、酒保《しゅほ》が今朝から店を開いているからすぐわかる。その奥に入って、寝ておれとのことだ。
渠はもう歩く勇気はなかった。銃と背嚢《はいのう》とを二人から受け取ったが、それを背負うと危《あぶな》く倒れそうになった。眼がぐらぐらする。胸がむかつく。脚がけだるい。頭脳ははげしく旋回する。
けれどここに倒れるわけにはいかない。死ぬにも隠れ家を求めなければならぬ。そうだ、隠れ家……。どんなところでもいい。静かな処に入って寝たい、休息したい。
闇《やみ》の路《みち》が長く続く。ところどころに兵士が群れを成している。ふと豊橋《とよはし》の兵営を憶い出した。酒保に行って隠れてよく酒を飲んだ。酒を飲んで、軍曹をなぐって、重営倉に処せられたことがあった。路がいかにも遠い。行っても行っても洋館らしいものが見えぬ。三、四町と言った。三、四町どころか、もう十町も来た。間違ったのかと思って振り返る――兵站部は燈火の光、篝火《かがりび》の光、闇の中を行き違う兵士の黒い群れ、弾薬箱を運ぶかけ声が夜の空気を劈《つんざ》いて響く。
ここらはもう静かだ。あたりに人の影も見えない。にわかに苦しく胸が迫ってきた。隠れ家がなければ、ここで死ぬのだと思って、がっくり倒れた。けれども不思議にも前のように悲しくもない、思い出もない。空の星の閃《ひらめ》きが眼に入った。首を挙《あ》げてそれとなくあたりを※[#「※」は「目+旬」、第3水準1−88−80、156−3]《みまわ》した。
今まで見えなかった一棟の洋館がすぐその前にあるのに驚いた。家の中には燈火が見える。丸い赤い提燈《ちょうちん》が見える。人の声が耳に入る。
銃を力にかろうじて立ち上がった。
なるほど、その家屋の入り口に酒保らしいものがある。暗いからわからぬが、何か釜らしいものが戸外の一隅《かたすみ》にあって、薪《まき》の余燼《もえさし》が赤く見えた。薄い煙が提燈を掠《かす》めて淡く靡いている。提燈に、しるこ一杯五銭と書いてあるのが、胸が苦しくって苦しくってしかたがないにもかかわらずはっきりと眼に映じた。
「しるこはもうお終《しま》いか」
と言ったのは、その前に立っている一人の兵士であった。
「もうお終いです」
という声が戸内《うち》から聞こえる。
戸内を覗《のぞ》くと、明らかな光、西洋|蝋燭《ろうそく》が二本裸で点《とも》っていて、罎詰《びんづめ》や小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、肥《ふと》った、口髭《くちひげ》の濃い、にこにこした三十男がすわっていた。店では一人の兵士がタオルを展《ひろ》げて見ていた。
そばを見ると、暗いながら、低い石階《いしだん》が眼に入った。ここだなとかれは思った。とに
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング