明らかな光線が室に射したと思うと、扉のところに、西洋蝋燭を持った一人の男の姿が浮き彫りのように顕《あら》われた。その顔だ。肥った口髭のある酒保の顔だ。けれどその顔にはにこにこしたさっきの愛嬌《あいきょう》はなく、まじめな蒼《あお》い暗い色が上っていた。黙って室の中に入ってきたが、そこに唸《うな》って転《ころ》がっている病兵を蝋燭で照らした。病兵の顔は蒼《あお》ざめて、死人のように見えた。嘔吐した汚物がそこに散らばっていた。
 「どうした? 病気か」
 「ああ苦しい、苦しい……」
 とはげしく叫んで輾転《てんてん》した。
 酒保の男は手をつけかねてしばし立って見ていたが、そのまま、蝋燭の蝋を垂らして、テーブルの上にそれを立てて、そそくさと扉の外へ出ていった。蝋燭の光で室は昼のように明るくなった。隅《すみ》に置いた自分の背嚢と銃とがかれの眼に入った。
 蝋燭の火がちらちらする。蝋が涙のようにだらだら流れる。
 しばらくして先の酒保の男は一人の兵士を伴って入ってきた。この向こうの家屋に寝ていた行軍中の兵士を起こしてきたのだ。兵士は病兵の顔と四方《あたり》のさまとを見まわしたが、今度は肩章《けんしょう》を仔細《しさい》に検した。
 二人の対話が明らかに病兵の耳に入る。
 「十八|聯隊《れんたい》の兵だナ」
 「そうですか」
 「いつからここに来てるんだ?」
 「少しも知らんかったんです。いつから来たんですか。私は十時ころぐっすり寝込んだんですが、ふと目を覚《さ》ますと、唸り声がする、苦しい苦しいという声がする。どうしたんだろう、奥には誰もいぬはずだがと思って、不審にしてしばらく聞いていたです。すると、その叫び声はいよいよ高くなりますし、誰か来てくれ! と言う声が聞こえますから、来てみたんです。脚気ですナ、脚気衝心ですナ」
 「衝心?」
 「とても助からんですナ」
 「それア、気の毒だ。兵站部に軍医がいるだろう?」
 「いますがナ……こんな遅く、来てくれやしませんよ」
 「何時だ」
 みずから時計を出してみて、「道理《もっとも》だ」という顔をして、そのままポケットに収めた。
 「何時です?」
 「二時十五分」
 二人は黙って立っている。
 苦痛がまた押し寄せてきた。唸り声、叫び声が堪え難い悲鳴に続く。
 「気の毒だナ」
 「ほんとうにかわいそうです。どこの者でしょう」
 兵士がかれのポケットを探った。軍隊手帖を引き出すのがわかる。かれの眼にはその兵士の黒く逞《たくま》しい顔と軍隊手帖を読むために卓上の蝋燭に近く歩み寄ったさまが映った。三河国渥美郡《みかわのくにあつみぐん》福江村加藤平作……と読む声が続いて聞こえた。故郷のさまが今一度その眼前に浮かぶ。母の顔、妻の顔、欅《けやき》で囲んだ大きな家屋、裏から続いた滑《なめ》らかな磯《いそ》、碧《あお》い海、なじみの漁夫の顔……。
 二人は黙って立っている。その顔は蒼く暗い。おりおりその身に対する同情の言葉が交される。彼は既に死を明らかに自覚していた。けれどそれが別段苦しくも悲しくも感じない。二人の問題にしているのはかれ自身のことではなくて、ほかに物体があるように思われる。ただ、この苦痛、堪え難いこの苦痛から脱《のが》れたいと思った。
 蝋燭がちらちらする。蟋蟀が同じくさびしく鳴いている。

 黎明《あけがた》に兵站部の軍医が来た。けれどその一時間前に、渠は既に死んでいた。一番の汽車が開路開路のかけ声とともに、鞍山站に向かって発車したころは、その残月が薄く白けて淋《さび》しく空にかかっていた。
 しばらくして砲声が盛んに聞こえ出した。九月一日の遼陽攻撃は始まった。



底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
   1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
※混在している「満州」と「満洲」、「輌」と「輛」は底本通りとし、統一しませんでした。
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
青空文庫作成ファイル:
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