ネギ一束
田山花袋
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)漏《も》り
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)終日|田舎唄《いなかうた》
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お作が故郷を出てこの地に来てから、もう一年になる。故郷には親がいるではない、家があるではない、力になる親類とてもない、村はずれの土手下の一軒家、壁は落ち、屋根は漏《も》り、畳は半ば腐れかけて、茶の間の一間は藁《わら》が敷き詰めてある。この一軒家の主が、お作のためには、天にも地にもただ一人の親身の叔父《おじ》で、お作はここで娘になった。
ぼろぼろの襤褸《つづれ》を着て、青い鼻洟《はな》を垂《た》らして、結う油もない頭髪を手拭《てぬぐ》いで広く巻いて、叔父の子を背負いながら、村の鎮守で終日|田舎唄《いなかうた》を唄うころは無邪気であった。筋の多いふかし芋《いも》、麦飯の結塊《むすび》、腹の減《す》いた時には、富家の子を騙《だま》して、銭を盗み出させて、二十銭の銅貨に駄菓子《だがし》を山ほど買って食った。根性が悪いといっては、村の家々に憎まれ、若い衆に打たれ、菓物《くだもの》を盗んだといっては、追いかけて捉《とら》えられて、路傍の門に細引きでくくり付けられ、あるいは長い物干竿《ものほしざお》で、走る背なかを撲《う》たれて、路上に倒れて膝頭《ひざがしら》を石に二寸ほど切って泣いたことなどもあった。白壁の土蔵、樫《かし》の刈り込んだ垣《かき》、冠木門《かぶきもん》、物心がついてから心から憎いと思ったのは、村の物持ちで、どうしてこの身ばかりこう賤《いやし》く、こう憎まれ、こう侮られ、こう打たれるのかと思った。それに、叔父にもよく打たれた。言うことを聞かぬとか、物をよく食うとか、仮寝《うたたね》をするとか、なんぞと言っては、どやしつけられるのがつらさに、ある時などは、村の路《みち》に通りかかった旅商人らしい男に縋《すが》って、どこへでもいい、どんな難儀をしてもいいからいっしょに連れていってくれと頼んだ。村から西に一里ほど、水の少ない石川があって、その向こうに楊樹《やなぎ》の繁茂、路のほとりに一箇の石地蔵、それをお作はいつでも思い出した。追いかけて頼んでも縋っても、旅客は知らぬ顔をしてずんずんと先に行く。初夏の日影は美しく光って、麦の緑が静かな午後の微風に揺《うご》いている。その石川の楊樹のところに来て旅商人はふと立ち留まった。痩《や》せた、顔の青い、髪の延びた男であった。背には風呂敷《ふろしき》包み、紺の脚絆《きゃはん》も長旅の塵埃に塗《まみ》れて、いかにも疲れ果てたというふうであったが――立ち留まって、あとを追いかけてきた田舎娘を待った。伴《つ》れていってやるから、なんでも言うことを聞くかという。お作は喜んだ。
その楊樹の繁《しげ》みをお作はいつも思い出す。まだ何ごとをも知らぬ小娘、長旅の疲労に伴って起こった男のはげしい慾望、彩色を施した横|綴《と》じの絵、――二十分の後、旅客の大跨《おおまた》で走って遁《に》げていくのをお作は泣きながら追った。けれど女の足でどうしてこれに追いつくことができよう。欺かれたと知って、忿怒《いかり》がたちまち心頭を衝《つ》いて起こった。お作は小石を拾ってあとから投げた。一つが旅商人の背中に当たった。と、振り返ったその顔、それが今でもありありと眼に見える。
その時が十四歳、それから十九歳の昨年まで、お作はその呪《のろ》うべき故郷を去ることができなかったのだ。叔父夫婦の虐待、終日の労働、夏のじりじりと眼も眩《くら》む日に雇われて、十二時間の田草取り、麦の収穫の忙しい時にはほとんど昼飯を食う暇もない。それに養蚕《かいこ》の手伝い、雨の日の桑つみ、荷車のあと押し、労働という労働はせぬものとてはなかった。またある時は、機《はた》の工場に雇われて、一日に一反半の高機織り、鼻唄を唄う元気さえなくなった。筬《おさ》をしめる腕は、自分のか他人のかわからぬくらいにつかれ果てることもあった。若いというのは人間の幸福、いくらはげしく働いても、夜は楽しい機織り室の戸を、ことことと叩《たた》く音がして、闇《やみ》に白い頬《ほお》かぶりの男の立ち姿、お作の朋輩《ほうばい》にはこういう羨《うらや》ましい群れがたくさんあったけれど、お作はこの若いという幸福をも充分には受けえられぬ不幸の身であった。彼女は額の大きい、鼻の丸い、ちぢれ毛の、鉄色した醜い女であった。
しかし十九歳で故郷を去ったお作には相手があった。この界隈《かいわい》でも有名な祭文読み、博奕《ばくち》が好きで、女が好きで、ことに声が好いので評判であった。生まれは西のものだそうだが、一年ほど前からこの地に来て、あるいは鎮守の祭り、村の若者の集合するところなどに呼ばれて、錆《さ》びた
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