太い調子づいた声に、多くの無智《むち》の男女をあくがれしめたが、突然お作はこれとでき合って、こんなところはつまらぬ、人の出盛る温泉場に行けばもっとおもしろいことがあると、誘うも誘わるるも、行く水の思いのままなる二人連れ、こんな故郷はどうでもよいと、お作は闇に住み馴れた地を離れた。
 西に百里の温泉場に来て二人は暮らした。楽しかったのは、ほんのつかの間、いや、旅に出るより早く二人は既に――争いを始めた。野に生まれて、野に生《お》い立《た》って、そして野に食物をあさる群れの必ず定まって得る運命――その悲しいつらい運命にお作も邂逅《でくわ》した。
 捨てられてお作は泣いた。続いて、十四の時、知らぬ旅客の背中に石を投げつけたと同じような忿怒《いかり》をはげしく心頭に起こした。けれど泣いたり、怒《おこ》ったりしただけでは、その終わりを告げることはもうできなかった。お作はその時懐妊して七か月目であった。
 七か月より臨月までの苦痛、労働のできる間は種類を選ばず労働して、刻々に迫り来る飢餓と戦った。新道の道普請に、砂利《じゃり》車のあと押しをして、熱い熱い日の下に働いていたが、ふとはげしい眩惑《げんわく》を感じて地に倒れ、援《たす》けられて自分の小屋に送り込まれてからは、いかな丈夫な身体《からだ》もどうすることもできず、憐みの眼と情けの手に、乞食《こじき》にひとしい月日を送った。
 蟾蜍《がま》のような大きい腹を抱《かか》えて、顔は青く心は暗く、初産の恐怖は絶えず胸を痛めて、何がなし一刻も早く身二つになれかしと祈った。腹の中の子の動くのを覚ゆる時には、これさえ産まれたなら……と常に思った。そうしたならまた労働して自分だけのことをしよう。そして無情の男を捜し出して恨みを晴らしてやろうと思った。時にはまたその男のことを考えて、どうかしてもう一度いっしょに暮らしたい。かわいい子が生まれて、それを見せてやったなら、男もきっと折れて、やさしくなるに違いないと思った。お作はまだ男を恋うていた。
 子は産まれた。
 産まれぬ前と生まれたあとの事情がまるで変わった。身二つになりさえすればよいと思ったが、それは誤りであったことがすぐわかった。幼いながらも人間の絶えざる要求、乳を求めて日夜に泣く赤児の声、抑《おさ》ゆることのできぬ強いはげしい母親の愛情、お作は離るべからざる強い羈絆《きずな》[#ルビの「きずな」は底本では「きづな」と誤植]のさらに身にまつわるを新たに覚えた。
 過労と営養不良とで、乳が十日目ころからぱったり留まった。赤児は火のついたように間断《ひっきり》なしに泣く。それを聞くと、母親というものは総身の血が戦《ふる》えるほどに苦しく思った。で、お作もその身の食物を求めるよりもまず赤児の乳を尋ねまわった。乳酪《ミルク》を買う銭がないので、隙《ひま》をつぶして、あっちこっちと情け深い人の恵みを求め歩いた。で、昼はまずどうやらこうやら過ごしていくが、夜が実につらい。出ぬ乳をあてがって、畳の足に引っかかる一間の中をあっちこっちと動物園の虎《とら》のようにして揺《ゆす》って歩くが、どうしても泣きやまぬ時などは、いっそ放り出してしまおうかと思うほどだ。
 産褥《さんじょく》を早く離れた結果と、営養の不足と、精神の過労とで、今までついぞ病んだことのないお作も、はげしい頭痛と眩惑とを感じて、路を歩いてもおりおり倒れそうになることがある。ある日などは、やむなく終日を一室に倒れていたことなどもあった。だから、労働して食を得ようなどとは思いも寄らぬ。飢餓と病と心労と――お作はいよいよ苦境に陥った。
 一月ほど経《た》ったある日の午後であった。
 お作は起き上がった――室は暗く汚《きたな》い。一隅に小さい葛籠《つづら》、その傍に近所の人の情けで拵《こしら》えた蒲団《ふとん》に赤児《あかご》がつぎはぎの着物を着て寝ていて、その向こうに一箇の囲炉裏《いろり》、黒い竹の自在鍵《じざいかぎ》に黒猫《くろねこ》のようになった土瓶《どびん》がかかっていて、そばに粥《かゆ》を炊く土鍋《どなべ》が置かれてあるが、幾日にもそれを炊いた跡が見えない。木の燃えさしがだらしなく転《ころ》がっていて、畳の黒く焦げたのがきわだって眼につく。これは祭文読みとお作と喧嘩《けんか》した時、過《あや》まって取り落として燃えたのであった。戸外は秋の灰色に曇った日、山の温泉場はやや閑《ひま》で、この小屋の前から見ると、低くなった凹地《くぼち》に二階三階の家屋が連って、大湯《おおゆ》から絶えず立ちあがる湯の煙は静かに白く靡《なび》いていた。
 渓流《たに》の瀬の鳴る音が遠くで聞こえる。
 お作は立ちあがった。二日以来飯をろくろく食わぬので、足が妙にふらつく。こう腹が減ってはしかたがない。なんでもいいから食えるも
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