のを少し捜してこようと思ったのである。と、同時に赤児が声を挙《あ》げて泣き出した。で、お作はふらつく脚《あし》を踏み占めながら、まず抱き上げて、出ぬ乳を吸わせたが、容易に泣きやもうともせぬので、今度は黒砂糖を水に溶かして、吸い口をあてがってみた。で、どうやらこうやら泣きやんだので、それを古い帯で背にくくりつけて、そのまま戸外に出た。
 灰色の雲は低く垂れて、なんとなく頭を圧《おさ》えられるような空模様であった。お作の小屋は温泉場の裏の斜坂の中央に当たっているので、下にはまずまばらに茅葺屋根《かやぶきやね》、大根の青い畑が連って、その下に温泉場、二階三階、大湯から出る湯の煙、上を仰ぐと、同じ畠《はたけ》の斜坂《さか》の爪先《つまさき》上がりになっている間に一条《ひとすじ》の路がうねうねと通って、その向こうは煙るような楢林《ならばやし》の灰色が連続した。
 高い山には炭焼きの煙が見える。
 お作は家を出てその畠道を歩いた。つらいその身の境遇や、悲しい追懐よりも、ひもじいという念が第一にその胸に押し寄せてきて、何か畠に食うものはないかとあたりを見まわした。牛蒡《ごぼう》畑、大根畑が一面に連なり渡っていたが、ふと、五、六間先に葱《ねぎ》の白い根を上げた畑が眼に入った。
 われを忘れて、畑の中に入って、ほとんど人の物を盗むなどという念も起こらぬ中に、たちまち一束の葱を取って、それを揃《そろ》えて、もとの畠の道に出た。その時、同じ畠道を、一人の男――かねて見知っている温泉宿の年寄りの番頭がこっちに歩いてきた。
 葱を一束抱えてお作の立っているのを、ふと眼につけて、
 「葱かね!」
 と言って笑って通り過ぎた。
 お作はぎょっとして我に返った。自己《おのれ》の罪跡を見つけられたと思って、身が地にすくむような気がした。はげしい飢餓をも忘れて、茫然《ぼうぜん》として立っていた。見ると、その年寄りの番頭は一歩一歩その細い爪先上がりの道を静かに静かに歩いていく。黒い縞《しま》のどてらが、青い畑と灰色の森との間をてくてくと動く。ふと林に入ろうとする畠から、鋤《すき》を荷《にな》った一人の百姓が出てきて、だんだんとこっちへおりてきたが、前の番頭に出逢《であ》うと、二人は立ち留まって何ごとをか語った。いや、番頭の白い顔がちらとこっちを振り返ったのが見えた。てっきりその身の罪を告げている! とお作は思った。お作は顔を蒼青《まっさお》にしてぶるぶると戦《ふる》えた。

 一時間後に一事件が起こった。裏の山の林で、嬰児《えいじ》殺しがあったという噂《うわさ》が温泉場に知れ渡った。見てきた男に聞けば、林でおいおい泣き声が聞こえるから行ってみると、それは小屋の祭文読みの嬶《かかあ》で、自分で緊《し》め殺した赤児を抱いて声を挙《あ》げて泣いていたそうな。それから自分も死ぬつもりでもあったのか、そばの樹には細帯が長く吊《つ》るしてあったとの話であった。で、駐在所の巡査が二人まで剣をじゃらつかせながら駆けていく。村の世話役の男が呼吸《いき》を切って飛んでいく。そのあとから村の若者、子供、女、赤い蹴出《けだ》しやら、大縞の絆纏《はんてん》やら、時計の鎖を絡《から》ませた縮緬《ちりめん》のへこ帯やら、赤鼻緒の黒塗り下駄《げた》やら、ぞろぞろとその細い畠道には、人が続いて、その向こうの林の中に巡査の制服が見え、おりおりけたたましく泣く女の声がきこえた。灰色の侘《わび》しい空が低く垂れた。



底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
   1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
2001年10月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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