!」勇吉は妻にすぐ言って聞かせようとは思ったけれど、まアあとで、すっかり決ってからでも好いと思いかえして、その愉快な計画を自分一人の腹の中に納めて置いた。勇吉はボールの厚板を押入の中から捜して、不完全な原稿の訂正に其日を費した。丸く切ったボール紙をぐるぐる廻して、別の紙の数字と合せるように勇吉は骨折ってこしらえた。すべてがかれの思うように行った。かれは使用法を箇条書きにして書いて見たりした。
「旨い、旨い。これで出来た。」
 かれは喜ばしそうな顔をして言った。
「何ツていう名をつけようか。」続いてかれはこう思った。万代暦、何うも固すぎると思った。新式万世暦、年代暦、こうも考えた。しかし何れもこれも皆な気に入らなかった。もう少し砕けて出て、ちょうほう暦、百年こよみなどという名をつけてみた。何うも矢張自分の思ったような好い名がなかった。
 勇吉はその名の為めに尠くとも三日、四日考えた。ふとトコヨという字が頭に浮んで来た。トコヨゴヨミ――好い、好い、これが好いこれが好いと思って、嬉しそうに膳を叩いた。山田式トコヨゴヨミ――二、三度口でよんで見て、「矢張、式なんて言う字がない方が好い。ヤマダトコヨゴヨミ、それで好い、それで好い。」こう得意そうに言って、それを原稿の上のところに、ゴシックスタイルで丁寧に書いた。そしてその上に理学博士吉田卓爾先生証明と横に書いた。
「これで好い、これで好い。」
勇吉はある大きな事業をしたような心持ちで雀躍して狭い室の中を歩き廻った。

     四

 出京の準備は思の外手間取った。土地の処分をして、少しでも多く金を作りたいと思ったので、金を借りた家に行って相談をしたりなどした。懇意の医師の許などにも行った。
 十一月の末が来ても、まだ土地の処分が完全に出来なかった。勇吉は段々焦々し出して来た。「暦は十二月から正月が売れるんだ。ぐずぐずしていて時を失っては大変だ。」こんな風に考えたかれは、終には安く土地を手離して了わなければならなかった。「何アに構わない、貯金の金があるから、東京に行ってから一月、二月は何うにでもして行かれる。少し位安くっても早く行けるほうが好い。」勇吉はこう思って土地売買の証文に判を捺した。
 勇吉の妻も無論東京に出るという計画を喜んでいた。まだ東京を知らないかの女に取っては、東京は何んなことでも出来るところのように思われていた。果して夫の言う通りならば、こんな寒い荒蕪地の中に暮しているより何れほど好いか知れなかった。絶えず心配になっている Socialist の嫌疑を避け得られるだけでも好いと思った。始めて運が開いて来たという風にも考えられた。長年夫を知っているので、時には、「何を言っているんだかわかりゃしない。そんな暦が売れるもんだか何だかわかりゃしない。」こう不安に思うこともないではなかったが、雪の中に顫えて餓えているよりは、何んな苦労をしても東京に行く方がまだしも好いと妻は思った。
「私は何んな苦労をしても好いけど、貴方もしっかりして下さらなけりゃ仕方がないよ。」
 こう妻は勇吉に言った。

     五

 小さな海岸の停車場から目も覚めるような賑やかな大きな上野の停車場までのさまざまな光景は、何枚続きの絵か何ぞのようになって勇吉の妻の眼に映って見えた。雪、雪、雪、何処を見ても雪ばかりの広い荒漠とした野原の中の停車場が見えるかと思うと、何本もわからないほどの煙突が黒い凄じい煤煙をあたりに漲らしているような大きな町なども見えた。ある線からある線へ乗換える停車場では二人は寒気に顫えながら、家から持って来た冷たい結飯などを食った。女の兒が泣いて泣いて何うしてもだまらないので、一度背中から下して、乳を含ませて見たりなどしたが、矢張りそりかえって火がつくように烈しく泣いた。
「貴方、ちょっと抱いて下さい。」
 こう言うと、夫は暗い顔をして黙ってそれを抱いてあちこちと揺って歩いた。暗い暗いプラットホームだった。汽車は大きな眼のように光をかがやかして凄しい地響をさせてその停車場に入って来た。
 夥しく混み合った三等室を勇吉の妻は眼の前に浮べた。大きな荷物を抱えて二人は入って行ったが、何処も一杯で坐る処がなかった。妻だけは何うやらこうやら割り込むようにして腰をかけさせて貰ったが、勇吉は大きな荷物を下に置きながら、便所の扉のところに凭りかかっていなければならなかった。それに便所の扉は幾度か明けられたり閉められたりした。後には夫は立ちくたびれて堪らなくなったというようにして荷物の上に腰を掛けた。
 大きな町の雪に埋っているさまなども見えた。鮨、弁当、正宗、マッチ、煙草――と長く引張った物売の声が今だに耳について残っているように思われた。海に近い町に来て汽車を下りて、停車場の傍の方の小さな旅舎で朝飯を食った時には、ひどく労れて、一時間でも二時間でも好いから寝て休んで行きたいと妻は思った。其処は勇吉に取っても妻に取っても思い出の多い処であった。結婚した翌年二人は山の中から海を渡って其処に来た。そこに二人は一週間ほどいた。「その時分は楽しかった。」などと妻は思った。
 追立てられるようにして、埠頭の方へ駈けて行く二人の姿が続いて見えた。向うに渡る汽船の白いペンキ塗は碧い海の中にくっきりと見えていた。めずらしく其朝は晴れていた。朝日が煌々と眩しく海に砕けて光っていた。
 寒い汚い狭い船室に、動物か何ぞのように人々は坐ったり寝たりしていた。一種のイヤな臭気が何処からともなく襲って来た。妻は眠くって眠くって仕方がなかった自分を見た。「己は甲板の上に行っているぞ。」こう勇吉が言って出て行くのをうつつに聞いて、女の兒に乳を含ませながら大勢の人達の中に足を蝦のように曲げて、何も彼も忘れてぐっすりと寝た。
 船から下りたところにある停車場では、故郷の方にわかれて行く汽車が今発とうとして烟を挙げているのを見た。「国になんか寄っていられない。そんな暇はない。そうでなくってさえ遅くなったんだ。もう十二月じゃないか。」こう言って二人とも素通をして行くことにきめていたけれど、此処に来ては流石に国の方に心をひかれない訳には行かなかった。「こうして東京に行けばまたいつ国に行って親や同胞に逢われることだろう。」こんなことを思って、勇吉の妻は涙をそっと袖に拭った。
 其処でも二人は停車場の前の茶店にも休まなかった。一銭でも多く金をつかうことを二人は恐れた。東京に行って暦が売れるか、ある職業にありつくかするまでは、餓を忍んでも暮さなければならないような境遇であった。勇吉の妻は其処で泣く子の為めに駄菓子を二つ三つ買ったばかりであった。
 三等室は矢張混み合っていた。一日も二日も汽車や汽船に揺れ通してやって来た体は、ヘトヘトに労れて、物に凭りかかりさえすればすぐ居眠が出るようになっていた。勇吉は蒼い昂奮した顔をして、両方から押つけられるようにして小さくなっていた。窓の硝子に箒のようにぼさぼさした頭を凭せかけて昏睡していたりした。
 勇吉の妻は段々賑やかな町や村や停車場の多くなって来るのを見た。人が沢山に路を通っていた。こんなに大勢人が居るかと不思議に思われる位であった。海を一緒に越えて来た人は、「北海道はえらい凶作ですよ。この冬が思いやられますよ。」などと言って、粟も稗も馬鈴薯も取れなかったことを車中の旅客に話して聞かせたりなどした。
 気候も段々暖くなって来た。畠には麦が青々と生えていた。「あちらに比べたら、何て好い処なんだろう。こういうところに住んでいる人達は何れほど仕合せだか。」勇吉の妻はこんなことを思って、雪一つない地上に草や木の青々と生えているのをめずらしそうに見た。
「暖かいこと。」
 こう勇吉に言って見たりした。
 賑かな大きな目も覚めるような停車場――幸いにも其処には予め手紙をやって今日の到着を知らせて置いた遠い親類の男が迎いに来ていて呉れた。荷物と一緒に自分と女の兒だけ車に乗せられて、借りて置いて呉れた裏店のような三軒つづきの狭い家にやがて皆なは落附くことになった。それは擂鉢の底のようになっている処で、ちょっとの隙間もなく家が一面に建て込んであった。
「何て家の多い処だか――私吃驚した。」こんなことを勇吉の妻は言った。
 三畳に六畳、床の間もないような小さな家であった。それでも彼方の寒い掘立小屋よりはいくら増しだか知れないと妻は思った。新しい柄杓、新しい桶、瀬戸で出来た釜、鍋、薬罐、そういうものをやがて親類の男は買って来て呉れた。その男は勇吉の母方の従弟で、近所の工場に勤めているような人であった。妻はあの荒蕪地の中からこういう処に急にやって来たのを不思議に思わずにはいられなかった。「私、まだ体が揺いでいるような気がして。」二三日経ってからも妻はこんなことを勇吉に言った。

     六

 勇吉は着いた翌日から、彼方此方と活版所をさがして訊いて歩いた。しかし落附いてかれの要求を聞いて呉れるような所は稀であった。勇吉の様子をジロジロと見て、てんから相手にしないようなところも何軒かあった。「そうですな、今は年の暮が近いもんですから、忙しくってとてもお引受は出来ませんな。春にでもなれば、また緩り御相談をしてもよう御座いますが……。」ある小さな活版屋の爺はこんなことを言って笑った。勇吉は気が気でなかった。かれは一軒から一軒へと熱心に訊いて見て歩いた。
 かれは活版屋をさがすだけにもに三日を徒らに費さなければならなかった。漸くさがしあてた処は、場末の小さな活版所で、見積もあまり安くはないと思ったけれど、ぐずぐずしていて機会を失っては大変だと思って、勇吉は兎に角其処で印刷させることにして、その翌日すぐ原稿を持って行った。
 鬚の生えた四十恰好の主人は、勇吉からその原稿の説明を聞いて、「成るほど、これは面白いもんだ。千年前でも千年後でも何日は何曜日だって言うことがちゃんとわかるんですな、これは新案だ。」などと言って、丸いものを自分で廻して見たりした。
「博士の証明までついているんですな、これなら確かなもんだ。」などと言った。「忙しいけれども、兎に角二十日までにこしらえて上げましょう。千枚ですな……。」こう言ってちょっと途切れて、「それで紙の色は何が好いでしょう。」
 勇吉は見本に出した小さな帳面をひっくりかえして見た。色の種類も少なく好い色もなかった。ふとかれの崇拝している作家の短篇集の表紙に似た色が其処にあったのを見て、「これにしましょう、これにしましょう。」と早口に言った。
「知っている絵かきがありますから、何か少し周囲に意匠をさせましょうか。いくらもかかりゃしません。余り周囲に何もなくってはさびしいですからな、書斉の柱なんかにかけて粧飾にして置くもんだから……。」深切な主人はこんなことを言って呉れた。原稿を持って行ってから俄かに主人の態度の変って行ったのも勇吉には成功の第一のように見えた。
 博士の邸を本郷の高台に訪ねて行った時には、怪しい姿を玄関にいる大きな犬に噛みつくように吠えられて、かれは狼狽した。幸いに博士は在宅で、立派な庭に面した大きな室で逢って呉れた。「それは好いですな、登録すれば一層好いんだけれども、まあ、誰も始めは真似るものもあるまい。少し売出してからにする方が好い。」などと言ってて、版権登録の手続などを教えて呉れた。勇吉は土産に持って行ったものを出すのが恥かしいような気がした。
 帰る時に、漸く思切って、「これはあっちで取れたので御座いますが、私がつくったんだと猶好いんですけれども……そうじゃ御座いませんけれども、折角持って参ったんですから。」
 こう言って、木綿の汚れた風呂敷から新聞紙に包んだ一升足らずの白隠元豆を其処に出した。
「イヤ、これは有難う。好い豆が出来るな、矢張り、彼方では。」
 博士は莞爾しながら言った。
 勇吉は唯まごまごして暮した。印刷が出来上らない中は販路の方に取りかかることも出来ないので、仕方なしに職業の方を彼方此方で訊いて見たりなどした。路の通りにある職業周旋のビラの沢
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