ら遙々とこの荒蕪地へやって来ている人達を見た。中には一村を挙げて同じ調子の国訛の言葉をつかっているようなところもあった。人々は皆な精を出して働いていた。「これでも一生の中には、国に帰るつもりですよ。」などと人々は皆な言った。「寒いし、それに、こういう処で一生暮す気にはなれないね。まア、金をためて国に帰って好い田地でも買って、年を取ってから、楽をするんだねえ。」などという人もあった。かと思うと、荒蕪地をある程度まで耕して、それを後から来た者に売って、もっと交通の便な、開けた町に近いところへ出て行こうとしている人などもあった。森だの藪地だのからは、大きな伐木を焼く煙が高く高く挙っているのを勇吉は見た。
 雑嚢に一杯薬を入れると、二貫目位の重量があった。それが段々一日増しに軽くなって行った。勇吉はそれを楽みにして歩いた。
 兎に角それだけ売り上げれば、かれはいつも家の方へ引返して来ることにきめていた。しかしそれが十里行って売切れるか、二十里行って売り切れるかわからなかった。一度は三十里近くも行って、それでも売り切れずに山を越して海岸に出て、そして漸く帰って来たことなどもあった。旅舎のない村では、頼んで漸く泊めて貰った。

     二

 ある夜、勇吉は荒れた小さな駅に来て泊った。そこはある街道からある街道へ通ずるような処で、旅客が馬を次ぐ宿駅になっていた。広い路に添って、人家が十二三軒あった。明るい灯のついた三味線の音のする料理屋などもあった。十月の初めは、もう内地の初冬の頃の気候で、林の木の葉は黄葉してバラバラと散った。
 旅舎の店の処を通ろうとして、ふと見ると、ゴルキー集と書いた短編集の散々読み古されたのが其処の机の上に置いてあった。勇吉はそれを手に取って見た。不思議にも芸術に対する憧憬が湧きかえるように起って来た。この前にも立場などで古新聞の破片などに自分の崇拝していた作家の作を発見して、東京の方をなつかしく思ったことも二、三度はあったが、しかし其時ほど強い烈しい憧憬を覚えたことはなかった。勇吉は頁をくって見ていたが、
「これは誰のだい?」
 亭主は振返って見て、
「誰のって言うことはありましねえ。此間、お客様が忘れて置いて行った小説本だ。」
「ちょっと借りて行くよ。」
「え、ようがすとも……。」
 其夜一夜、かれはその短編集を手から離さなかった。夕飯前に読み、寝る前に読み、蒲団に入ってからも読んだ。かれは其処にかれの日常多く見ているような旅客だの乞食だの強盗だのを見た。愚かな百姓、色気のない田舎娘、行商人、それは皆なかれの常に眼で見たり話で聞いたりするような人達であった。作物の背景になっている天然もよく似ていた。矢張、樺の林や白楊や白樺などで取囲まれてあった。空は広く星はキラキラと煌いていた。
「そっくりだ、そっくりだ、こういう人間はいくらもいる。」
 読みながら勇吉は何遍となくこう繰返した。
「こう書けば好いんだ。」
 こんなことを言ったかれは、昂奮して膝を拍った。かれは自分の逢った人間を頭の中に繰返して見た。
「あれもそうだ、あれも好い、あいつも書ける。」こう言ってまた膝を叩いた。
「そうだ、そうだ!」
 こう言っては、また深く読み耽った。二三時間の中に、かれはすっかりそれを読み尽して了って、中で気に入ったものをもう一遍読みかえしたりした。「是非、やって見よう。」つぶやくようにかれは独語した。
 夜遅くついた旅客の馬の鈴の音がちゃらちゃらと静かに窓の下のところでした。勇吉は窓を明けて見た。広い空には星が煌々とかがやいていた。

     三

 確かな計算を立てて、少し耕しかけた田地を安くある人から買って、日雇取に頼んで開墾に着手し始めた。自分は矢張薬売に遠く出かけて行ってはいたが、兎に角勇吉は百姓になろうと決心した。それより他に自分の出て行く道はないとすら思った。旅から帰って来て自分の荒蕪地が少しずつでも開墾されて行っているのを、見るのは楽みであった。しかし、半年と経たない中に、確かな計算だと堅く信じていた数字が数字通りになって行かないのを勇吉はだんだん発見した。一年間に規定された荒蕪地を完全に開墾するには猶多くの金と力とを要した。天然と戦うのについて思いもかけない障碍が沢山に一方にあると共に、日雇取達は何の彼のと言っては怠けて遊んだ。開墾が出来て貸した方の土地には、小作人は菜種などを蒔いたが、それも十分な収穫を得ることが出来なかった。薬の方で儲けた金は段々土地の方にすい取られて行った。勇吉は鉛筆で数字を書いた帳面の上に、髪の延びた蒼白い顔を落して、屈託そうに何か考えていることなどがよくあった。
 しかし、計算が合わないでも、天候さえ十分ならば、かれの計画は段々成功して行くであろうと思われた。「なアに、そう心配したものではない。三年も経てば余程目鼻が明いて来まさ。」こう年を取った近所の百姓は言って呉れた。ところが不仕合せにも二年目は天候は好い方ではなかった。菜種も、豆類も、粟もすっかり駄目だった。百姓はこぼしながら馬鈴薯や玉蜀黍などを食った。今年こそ、今年こそと言って、昨年の凶作の取りかえしをしようとした今年は、また昨年以上に天候がわるかった。暑い日影の照ったことなどは殆ど一度もないと言って好い位であった。秋の末のような薄ら寒い気候が農作に肝腎な夏の盛りのすべてを占めた。此処では、五日でも一週間でも好いから、くわっと暑い日の光線の照りわたるのが必要であった。強い日の光を受けさえすれば、作物は一日、二日の中に三尺も四尺も伸びるというような処であった。で作物は皆な成熟せずに終った。粟にも穂という穂もつかなかった。馬鈴薯さえ完全に出来なかった。豆、麦、稗、蕎麦――すべて小さくいじけて実を結ぶ間もないのに秋の霜は早くもやって来た。凶作という声が到る処に満ちわたった。物価は俄かに高くなった。とてもやり切れないなどと言って、半分耕した土地を売払って他国に行って了うものが頻々として続いた。ことに旅をして彼方此方を見て歩いている勇吉には、その災害の甚しいのが一層明かに眼に映った。ある村などでは、殆ど全く無収穫というような悲惨な状態に落ちているのを勇吉は見た。丘に添った村はひっそりとして煙の立っている家などはないという位であった。いつも威勢よく鈴の音をさせて山を越えたり野を越えたりして停車場の方へ行く駄馬の群にも滅多には出会わなかった。何処の村も皆なひっそりとしていた。
 勇吉は非常に大きな打撃を受けた。百姓の事業の方も無論そうだが、それよりも一層困ったのは、薬のぱったり売れなくなったということであった。病人は却っていつもより多いのだけれど、何処の家でも薬などは買わなかった。大抵は富山から来る置き薬で間に合せた。
「薬屋さん、気の毒だけど……この凶作じゃ薬も買って飲めねえや。」
 こう到る処で勇吉は言われた。
 勇吉は思い雑嚢を肩からかけてそして遠い旅から帰って来た。
「駄目だ、駄目だ。」
 こう言って、小さな自分の家に入って行った。六畳一間に、その奥に小さい二畳があるばかりであった。十月の末はもう寒かった。雪も二、三度やって来た。ブリキの暖炉の中には薪が燻って、煙が薄暗い室の中に一杯に満ちていた。妻は裏の方に行っていたが、声を聞きつけて此方に来た。背に痩せこけた女の兒を負っていた。
「何うだったね。」
「駄目だ、駄目だ。」
「ちっとは、それでも……。」
「駄目だ、駄目だ、すっかり駄目だ。」勇吉は神経性の暗い顔をして、「薬なんぞ買うものは一人もありゃしない。」
「困ったね。」
 妻はこう言って、「まア、上んなさい。留守に彼方から来たよ。いくらでも何うかして呉れって……。」
「そうか。」
 勇吉はこう言ったきりで、草鞋をぬいで上に上った。腹は減っているけれど、飯を食う気にはなれなかった。粟と麦とを雑ぜた雑炊――それすら今年から来年にかけての材料を持っていないということが、一番先に勇吉の胸につかえた。勇吉は母親の背に負われてにこりともせずに痩せていじけている女の兒を不愉快な心持で見た。
 古い煤けた箪笥、ブリキ落しの安火鉢、半分壊れかけた炭取りなどが其処に置いてあった。壁に張ったトルストイの肖像は黒く煤けて見えていた。勇吉は暖炉の前に坐って後頭部に両手を組合せて、やがて来る寒い冬を想像した。雪、雪、雪、恐ろしい雪がすぐ眼の前に迫っていた。「こうしちゃいられない。」勇吉はいても立ってもいられないような気がした。
「御飯は?」
「今、食う……。」
 こう言ったが、勇吉は夢中で膳に向かって二三杯暖いのをかき込んだ。で、いくらか元気が出て来た。「まア考えよう。」こう思って、蒲団を引ずり出して、古い汚い衿に顔を埋めたが、疲れているので、いつとなくぐっすり寝込んで了った。
 勇吉は一日、二日全く考え込んで暮した。百姓の事業の方も捨てて了うのは惜しいとは思ったが、これから先凶作が毎年つづくかも知れないと思うと、不安がそれからそれへと起って来た。それにかれの持っている土地を物にしようとするには、まだ少からぬ金が必要であった。今でさえ借りた金に困っているのに、此上金を工面することなどはとても出来なかった。貯金はいくらか持ってはいても、それは万一の時の為に残して置かなければならないものであった。勇吉は溜息をついた。
 ある日は何か思いついたことがあるように、急に勇み立って海岸の村へ出かけて行ったが、帰って来た時には、矢張しおれた動揺した顔をしていた。自分の住んでいる村の人達からはことにかれは何物をも得ることが出来ないのを見た。
「兎に角、こうしちゃいられない。こうしてぐずぐずしていれば、親子三人雪の中で餓えて死んで了うばかりだ。」
 こう思うと、勇吉はいても立ってもいられないような心持がした。それに海岸の村で聞いて来た Socialist に対する官憲の方針はかれの恐怖の血を泡立たせた。自分のあとには常に刑事がついていて、自分の考えていることは何も彼も知っている。こう思うと、怖くって仕方がなかった。片時も心の安まる時がなかった。自分は何もわるいことはしないのだけれど、今までのことが既に大きな罪になっていて、突然刑事や巡査がやって来て自分を伴れて行きはしないかとさえ疑われた。
 かれは部落に一人いる巡査を怖いものに思って、その駐在所の傍は常によけるようにして通って行った。
 ふと思いついた。かれは例の通り膝を拍った。晴々しい顔をして心の中で叫んだ。「そうだ。そうだ、そうしよう。あいつを持って東京へ行こう。あいつなら確かだ。確に売れる。誰も必要な重宝なものだから……。」かれは海岸の村にいる時分、一生懸命になって、ある一種の暦を発明したことを思い出したのであった。それは千年前乃至千年後の二十八宿と七曜日が数字の合せ方で間違いなく出て来るというようなものであった。それをかれはかれの不思議な数学的の頭から案出した。かれはそれを郷里出身の理学博士に送って賞讃を博した。現にその博士の手紙を勇吉は持っていた。「そうだ、それに限る。暦は安くって必要なものだから、いくらでも売れる。東京に行って、安い印刷所でこしらえれば費用だっていくらもかからない。一枚二、三十銭位で売り出せば屹度売れる。そうだ。好いことに思い附いた。」こう思って、かれは文庫の底からその暦の原稿を出して、更に博士の手紙を読みかえした。「七曜の数の出し方は確かに貴下の新研究と存候――。」こう書いてあった。今まで持っていた才能を何故今までつかわずに置いたかと勇吉は思った。限りない勇気が全身に漲って来た。神! 神が救けて呉れた! こんな風にも思って雀躍した。
 Socialist としての圧迫も、東京に行けば何うにでもなると勇吉は思った。「東京は広い。身を躱して了えばわかりゃしない。巡査だって、刑事だって、そうそうはさがして歩かれやしまい。それに、東京には代用小学校がいくらでもある。教員の口だってさがせばわけはない。そうだ。そうだ。こんなところに齷齪して、雪の中に餓えて死んで了うことはない。それに限る
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