何とも言うものもない。其処にはかれのあとをつけねらっている刑事もなければ、かれに向ってガミガミ言う力の強い妻もいない。心を絶えずイライラさせる子供の啼声もしない。何をしようが勝手である。そこでのみかれは自由に呼吸をつくことが出来るような気がした。「空と日と鳥と……何という自由なひろい天地だろう。」こう独りで言って、大きな自然に圧迫されたように後頭部に両手を当てて、死んだようになって、一時間も二時間も草原に寝ころんでいることなどもあった。
「おーい。」
などと大きな声を立てて、気違いのように手を振ったりなどした。
長い山路を通りながら、勇吉はまたよく昔のことを考えた。山路を一人歩いて行くかれに取って唯一の道伴だと言っても好い位であった。いろいろなことがかれの頭に衝き上るように集って来たり散ばって行ったりした。
東京で暮した一年の生活、それがいつでも一番先に湧き出すような力でかれに蘇って来た。顫えるような神経をかかえて、かれはある作家の玄関にいた。其処でかれはいろいろな人を見た。当時の文壇で名高かった小説家だの詩人だのを見た。美しい若い文学志願の女の群などにも逢った。恋、功名、富貴―
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