じゃないか。」こう言って二人とも素通をして行くことにきめていたけれど、此処に来ては流石に国の方に心をひかれない訳には行かなかった。「こうして東京に行けばまたいつ国に行って親や同胞に逢われることだろう。」こんなことを思って、勇吉の妻は涙をそっと袖に拭った。
 其処でも二人は停車場の前の茶店にも休まなかった。一銭でも多く金をつかうことを二人は恐れた。東京に行って暦が売れるか、ある職業にありつくかするまでは、餓を忍んでも暮さなければならないような境遇であった。勇吉の妻は其処で泣く子の為めに駄菓子を二つ三つ買ったばかりであった。
 三等室は矢張混み合っていた。一日も二日も汽車や汽船に揺れ通してやって来た体は、ヘトヘトに労れて、物に凭りかかりさえすればすぐ居眠が出るようになっていた。勇吉は蒼い昂奮した顔をして、両方から押つけられるようにして小さくなっていた。窓の硝子に箒のようにぼさぼさした頭を凭せかけて昏睡していたりした。
 勇吉の妻は段々賑やかな町や村や停車場の多くなって来るのを見た。人が沢山に路を通っていた。こんなに大勢人が居るかと不思議に思われる位であった。海を一緒に越えて来た人は、「北海
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