を食った時には、ひどく労れて、一時間でも二時間でも好いから寝て休んで行きたいと妻は思った。其処は勇吉に取っても妻に取っても思い出の多い処であった。結婚した翌年二人は山の中から海を渡って其処に来た。そこに二人は一週間ほどいた。「その時分は楽しかった。」などと妻は思った。
追立てられるようにして、埠頭の方へ駈けて行く二人の姿が続いて見えた。向うに渡る汽船の白いペンキ塗は碧い海の中にくっきりと見えていた。めずらしく其朝は晴れていた。朝日が煌々と眩しく海に砕けて光っていた。
寒い汚い狭い船室に、動物か何ぞのように人々は坐ったり寝たりしていた。一種のイヤな臭気が何処からともなく襲って来た。妻は眠くって眠くって仕方がなかった自分を見た。「己は甲板の上に行っているぞ。」こう勇吉が言って出て行くのをうつつに聞いて、女の兒に乳を含ませながら大勢の人達の中に足を蝦のように曲げて、何も彼も忘れてぐっすりと寝た。
船から下りたところにある停車場では、故郷の方にわかれて行く汽車が今発とうとして烟を挙げているのを見た。「国になんか寄っていられない。そんな暇はない。そうでなくってさえ遅くなったんだ。もう十二月
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