―そういうものの中に小さくなってぶるぶる顫えているようなかれであった。かれの崇拝した作家は東京の郊外にいて、トタン張の暑い書斉で、大きな作を試みて熱心に筆を執っていた。田舎で想像して出かけて行った心持や希望が逸早く氷のように解けて行って了ったかれを勇吉は歴々とその山路に見た。一年いても何うにもならないので絶えず焦々して神経を昂らせていた彼、持っている思想を紙にのばすことが出来ないで煩悶した彼、美しい女の幻影にあこがれて輾転反側した彼、キラキラする烈しい日光のような刺戟に堪えられずに絶えず眩惑する頭を抱えるようにしていた彼、蒼白い髪の長い顔をして破調の詩に頭を痛めていた彼、下劣な肥った家婢と喧嘩して腹を立ててその頭を撲って怒られた彼、電信柱が人間と同じく動いているような気がして驚いて帰って来た彼、郷里の友達の学校生活を羨しく思って一夜寝られなかった彼、――そういうものは、いつも一人歩いて行く勇吉の道伴になっていた。東京から帰って、腹立ちまぎれに、自暴まぎれに、郷里のある家に火を放けようとして、気違扱いにされて、遠い田舎にやられたことなどもかれは時々思い出した。「何うしてこうだろう。何うしてこう頭が悪いんだろう。」かれは以前にもよくこう思って、顔をしかめて頭を叩いたり何かしたが、今でも矢張りかれは頭のことを絶えず気にしていた。歩きながら、コツコツ自分で頭を叩いて見たりした。
「こんな立派な思想が自分にはあるのに――。」今でも何うかすると、そう思って、こうした僻境に年を取って行くのを勇吉は情なく思った。「他の人々は皆なそれぞれ明るい平和な生活なり家庭なりが出来て行くのに、何故、自分ばかりは、こういう暗い惨めな押詰められたような生活ばかりが続いて行くんだろう。」こう考える時には、一層明かに自分の通って来た路が暗い絵の具で塗られた何枚続きかの絵のようになって見えて来た。そうしてその最後の一枚には、肥った妻と自分に似て頭顱ばかり大きく発達した女の兒と蒼白い顔をした自分とが暗い寒い一間で寒さと飢えとに戦えていた。
 かれはかれの行く部落の人達にもやがて段々懇意になって、後には、「薬屋さん、薬屋さん。」などと呼ばれた。唯で午飯を御馳走して呉れる家などもあった。「此の間の薬はよくきいたよ、この通り治った。」ある百姓はこう言って怪我をした足を出して見せたりした。勇吉は到る処で、遠い国から遙々とこの荒蕪地へやって来ている人達を見た。中には一村を挙げて同じ調子の国訛の言葉をつかっているようなところもあった。人々は皆な精を出して働いていた。「これでも一生の中には、国に帰るつもりですよ。」などと人々は皆な言った。「寒いし、それに、こういう処で一生暮す気にはなれないね。まア、金をためて国に帰って好い田地でも買って、年を取ってから、楽をするんだねえ。」などという人もあった。かと思うと、荒蕪地をある程度まで耕して、それを後から来た者に売って、もっと交通の便な、開けた町に近いところへ出て行こうとしている人などもあった。森だの藪地だのからは、大きな伐木を焼く煙が高く高く挙っているのを勇吉は見た。
 雑嚢に一杯薬を入れると、二貫目位の重量があった。それが段々一日増しに軽くなって行った。勇吉はそれを楽みにして歩いた。
 兎に角それだけ売り上げれば、かれはいつも家の方へ引返して来ることにきめていた。しかしそれが十里行って売切れるか、二十里行って売り切れるかわからなかった。一度は三十里近くも行って、それでも売り切れずに山を越して海岸に出て、そして漸く帰って来たことなどもあった。旅舎のない村では、頼んで漸く泊めて貰った。

     二

 ある夜、勇吉は荒れた小さな駅に来て泊った。そこはある街道からある街道へ通ずるような処で、旅客が馬を次ぐ宿駅になっていた。広い路に添って、人家が十二三軒あった。明るい灯のついた三味線の音のする料理屋などもあった。十月の初めは、もう内地の初冬の頃の気候で、林の木の葉は黄葉してバラバラと散った。
 旅舎の店の処を通ろうとして、ふと見ると、ゴルキー集と書いた短編集の散々読み古されたのが其処の机の上に置いてあった。勇吉はそれを手に取って見た。不思議にも芸術に対する憧憬が湧きかえるように起って来た。この前にも立場などで古新聞の破片などに自分の崇拝していた作家の作を発見して、東京の方をなつかしく思ったことも二、三度はあったが、しかし其時ほど強い烈しい憧憬を覚えたことはなかった。勇吉は頁をくって見ていたが、
「これは誰のだい?」
 亭主は振返って見て、
「誰のって言うことはありましねえ。此間、お客様が忘れて置いて行った小説本だ。」
「ちょっと借りて行くよ。」
「え、ようがすとも……。」
 其夜一夜、かれはその短編集を手から離さなかった。夕飯前に読み、寝
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