時でも芸術ということを忘れてはいなかった。Socialist を承認してはいたが、それは芸術上の Socialist であった。勇吉は間もなく郡視学に喚ばれたり警察に呼ばれたりした。休職――こうして唯一の生活法であったかれの職業はかれから永久に奪われて行った。
 その時、妻は今の女の児を懐妊していた。「貴方は本当に、そんなんなんですか。なら、私、今からでも出て行く。怖い、死ぬのが怖い。」妻すらこう言って、勇吉の体をさがすようにした。「そうでないなら、そうって、ちゃんと申訳が出来そうなもんですね……。そんなわからないことはお上だってなさる筈がないんですがね……。」などと言った。海岸の小さな小屋みないな家で、ぶるぶる慄えながら寒い寒い一冬を過したことを勇吉は思い出してゾッとした。其処では刑事が時々様子を見にやって来た。黙って一時間も坐っていることなどもあった。その度毎に、勇吉は弁解したが、それは何の役にも立たなかった。「でも、こうやって来るのが私共の職務だから。」などと刑事は笑いながら言った。勇吉はその友達から来た手紙をすっかり出して見せたり、国の新聞に載せた歌の意味を解るように解釈して聞かせたりしたが、それでも矢張駄目だった。で一冬は少しばかり貯金して置いた金で辛うじて過して行った。しかし断頭台に上って、十二分に絶命した若い友達の悲惨な光景は絶えずかれの体に蘇って来ていた。

 懇意な深切な医師があって、勇吉の境遇を気の毒がって薬の行商を勧めて呉れたので、かれは辛うじて生活の道を得るようになった。その翌年は、一夏かれは其処から此処へと歩いて行った。幸いにもその年は豊饒で、薬は思ったより売行きがよかった。「思い切って百姓になろう。それが一番好い。自分で耕して自分で食う。世の中では、Socialist と呼ぼうが何うしようが、そんなことは頓着しない。」こう勇吉は幾度となく決心した。しかしその度毎に、かれの体格が鋤犁を取るには不適当なのを考えてかれは躊躇した。かれの体は小柄で、痩せて、力がなかった。「せめて妻位の体があれば――。」こう思って妻の肥えた体を見たことも一度や二度ではなかった。
 山路を歩きながら、
「出来る、出来る、小作にさせても出来る。確かに出来る!」
 こう発作的に叫んで、路傍の草の上に腰を下して、肩にかけた雑嚢の中から紙片と鉛筆とを出して、急いで数字を書いて計算して見たりした。「そうだ――これが十円、これが二十円、これが五円、確かに出来る、一軒分だけ払下げを願って置いて、それに開墾をさせれば、二年かかれば無論出来る。そうすれば、こんなにして遠い路を歩かなくっても好い。豊饒な土地は何んなにでも生活の道を与えて呉れる。そうだ、そうだ、帰ったら、早速着手しよう。何も官憲などを恐れている必要はないんだ。独立独行だ!」さも大きな独創的な考を得たように、膝を叩いて勇吉は跳り上って喜んだ。それは広く四辺が見渡されるような処であった。向うには山毛欅の森や白樺の林が広く遠く連っていた。此処等あたりまでは、開墾者もまだ入って来ないと見えて、低い灌木の野や、笹原や、林の中に、路が唯一筋細くついているばかりで、あたりには百姓の姿も見えなかった。夏の日が明るく心持好くかれの腰をかけている草地を照した。
「そうだ、そうだ。それに限る!」
 かれはまた絶叫した。そしてまた新しいことに気が附いたというように、早く鉛筆を紙の上に動かして計算をした。
 これに限らず、勇吉は草の上に寝ころんで休むことがすきだった。上には空と日の光があるばかりだ。何んな大きな声を出しても誰も何とも言うものもない。其処にはかれのあとをつけねらっている刑事もなければ、かれに向ってガミガミ言う力の強い妻もいない。心を絶えずイライラさせる子供の啼声もしない。何をしようが勝手である。そこでのみかれは自由に呼吸をつくことが出来るような気がした。「空と日と鳥と……何という自由なひろい天地だろう。」こう独りで言って、大きな自然に圧迫されたように後頭部に両手を当てて、死んだようになって、一時間も二時間も草原に寝ころんでいることなどもあった。
「おーい。」
 などと大きな声を立てて、気違いのように手を振ったりなどした。
 長い山路を通りながら、勇吉はまたよく昔のことを考えた。山路を一人歩いて行くかれに取って唯一の道伴だと言っても好い位であった。いろいろなことがかれの頭に衝き上るように集って来たり散ばって行ったりした。
 東京で暮した一年の生活、それがいつでも一番先に湧き出すような力でかれに蘇って来た。顫えるような神経をかかえて、かれはある作家の玄関にいた。其処でかれはいろいろな人を見た。当時の文壇で名高かった小説家だの詩人だのを見た。美しい若い文学志願の女の群などにも逢った。恋、功名、富貴―
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