る前に読み、蒲団に入ってからも読んだ。かれは其処にかれの日常多く見ているような旅客だの乞食だの強盗だのを見た。愚かな百姓、色気のない田舎娘、行商人、それは皆なかれの常に眼で見たり話で聞いたりするような人達であった。作物の背景になっている天然もよく似ていた。矢張、樺の林や白楊や白樺などで取囲まれてあった。空は広く星はキラキラと煌いていた。
「そっくりだ、そっくりだ、こういう人間はいくらもいる。」
読みながら勇吉は何遍となくこう繰返した。
「こう書けば好いんだ。」
こんなことを言ったかれは、昂奮して膝を拍った。かれは自分の逢った人間を頭の中に繰返して見た。
「あれもそうだ、あれも好い、あいつも書ける。」こう言ってまた膝を叩いた。
「そうだ、そうだ!」
こう言っては、また深く読み耽った。二三時間の中に、かれはすっかりそれを読み尽して了って、中で気に入ったものをもう一遍読みかえしたりした。「是非、やって見よう。」つぶやくようにかれは独語した。
夜遅くついた旅客の馬の鈴の音がちゃらちゃらと静かに窓の下のところでした。勇吉は窓を明けて見た。広い空には星が煌々とかがやいていた。
三
確かな計算を立てて、少し耕しかけた田地を安くある人から買って、日雇取に頼んで開墾に着手し始めた。自分は矢張薬売に遠く出かけて行ってはいたが、兎に角勇吉は百姓になろうと決心した。それより他に自分の出て行く道はないとすら思った。旅から帰って来て自分の荒蕪地が少しずつでも開墾されて行っているのを、見るのは楽みであった。しかし、半年と経たない中に、確かな計算だと堅く信じていた数字が数字通りになって行かないのを勇吉はだんだん発見した。一年間に規定された荒蕪地を完全に開墾するには猶多くの金と力とを要した。天然と戦うのについて思いもかけない障碍が沢山に一方にあると共に、日雇取達は何の彼のと言っては怠けて遊んだ。開墾が出来て貸した方の土地には、小作人は菜種などを蒔いたが、それも十分な収穫を得ることが出来なかった。薬の方で儲けた金は段々土地の方にすい取られて行った。勇吉は鉛筆で数字を書いた帳面の上に、髪の延びた蒼白い顔を落して、屈託そうに何か考えていることなどがよくあった。
しかし、計算が合わないでも、天候さえ十分ならば、かれの計画は段々成功して行くであろうと思われた。「なアに、そう心配したものではない。三年も経てば余程目鼻が明いて来まさ。」こう年を取った近所の百姓は言って呉れた。ところが不仕合せにも二年目は天候は好い方ではなかった。菜種も、豆類も、粟もすっかり駄目だった。百姓はこぼしながら馬鈴薯や玉蜀黍などを食った。今年こそ、今年こそと言って、昨年の凶作の取りかえしをしようとした今年は、また昨年以上に天候がわるかった。暑い日影の照ったことなどは殆ど一度もないと言って好い位であった。秋の末のような薄ら寒い気候が農作に肝腎な夏の盛りのすべてを占めた。此処では、五日でも一週間でも好いから、くわっと暑い日の光線の照りわたるのが必要であった。強い日の光を受けさえすれば、作物は一日、二日の中に三尺も四尺も伸びるというような処であった。で作物は皆な成熟せずに終った。粟にも穂という穂もつかなかった。馬鈴薯さえ完全に出来なかった。豆、麦、稗、蕎麦――すべて小さくいじけて実を結ぶ間もないのに秋の霜は早くもやって来た。凶作という声が到る処に満ちわたった。物価は俄かに高くなった。とてもやり切れないなどと言って、半分耕した土地を売払って他国に行って了うものが頻々として続いた。ことに旅をして彼方此方を見て歩いている勇吉には、その災害の甚しいのが一層明かに眼に映った。ある村などでは、殆ど全く無収穫というような悲惨な状態に落ちているのを勇吉は見た。丘に添った村はひっそりとして煙の立っている家などはないという位であった。いつも威勢よく鈴の音をさせて山を越えたり野を越えたりして停車場の方へ行く駄馬の群にも滅多には出会わなかった。何処の村も皆なひっそりとしていた。
勇吉は非常に大きな打撃を受けた。百姓の事業の方も無論そうだが、それよりも一層困ったのは、薬のぱったり売れなくなったということであった。病人は却っていつもより多いのだけれど、何処の家でも薬などは買わなかった。大抵は富山から来る置き薬で間に合せた。
「薬屋さん、気の毒だけど……この凶作じゃ薬も買って飲めねえや。」
こう到る処で勇吉は言われた。
勇吉は思い雑嚢を肩からかけてそして遠い旅から帰って来た。
「駄目だ、駄目だ。」
こう言って、小さな自分の家に入って行った。六畳一間に、その奥に小さい二畳があるばかりであった。十月の末はもう寒かった。雪も二、三度やって来た。ブリキの暖炉の中には薪が燻って、煙が薄暗い室の中に一杯に満ちてい
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