た。妻は裏の方に行っていたが、声を聞きつけて此方に来た。背に痩せこけた女の兒を負っていた。
「何うだったね。」
「駄目だ、駄目だ。」
「ちっとは、それでも……。」
「駄目だ、駄目だ、すっかり駄目だ。」勇吉は神経性の暗い顔をして、「薬なんぞ買うものは一人もありゃしない。」
「困ったね。」
妻はこう言って、「まア、上んなさい。留守に彼方から来たよ。いくらでも何うかして呉れって……。」
「そうか。」
勇吉はこう言ったきりで、草鞋をぬいで上に上った。腹は減っているけれど、飯を食う気にはなれなかった。粟と麦とを雑ぜた雑炊――それすら今年から来年にかけての材料を持っていないということが、一番先に勇吉の胸につかえた。勇吉は母親の背に負われてにこりともせずに痩せていじけている女の兒を不愉快な心持で見た。
古い煤けた箪笥、ブリキ落しの安火鉢、半分壊れかけた炭取りなどが其処に置いてあった。壁に張ったトルストイの肖像は黒く煤けて見えていた。勇吉は暖炉の前に坐って後頭部に両手を組合せて、やがて来る寒い冬を想像した。雪、雪、雪、恐ろしい雪がすぐ眼の前に迫っていた。「こうしちゃいられない。」勇吉はいても立ってもいられないような気がした。
「御飯は?」
「今、食う……。」
こう言ったが、勇吉は夢中で膳に向かって二三杯暖いのをかき込んだ。で、いくらか元気が出て来た。「まア考えよう。」こう思って、蒲団を引ずり出して、古い汚い衿に顔を埋めたが、疲れているので、いつとなくぐっすり寝込んで了った。
勇吉は一日、二日全く考え込んで暮した。百姓の事業の方も捨てて了うのは惜しいとは思ったが、これから先凶作が毎年つづくかも知れないと思うと、不安がそれからそれへと起って来た。それにかれの持っている土地を物にしようとするには、まだ少からぬ金が必要であった。今でさえ借りた金に困っているのに、此上金を工面することなどはとても出来なかった。貯金はいくらか持ってはいても、それは万一の時の為に残して置かなければならないものであった。勇吉は溜息をついた。
ある日は何か思いついたことがあるように、急に勇み立って海岸の村へ出かけて行ったが、帰って来た時には、矢張しおれた動揺した顔をしていた。自分の住んでいる村の人達からはことにかれは何物をも得ることが出来ないのを見た。
「兎に角、こうしちゃいられない。こうしてぐずぐずしていれば、親子三人雪の中で餓えて死んで了うばかりだ。」
こう思うと、勇吉はいても立ってもいられないような心持がした。それに海岸の村で聞いて来た Socialist に対する官憲の方針はかれの恐怖の血を泡立たせた。自分のあとには常に刑事がついていて、自分の考えていることは何も彼も知っている。こう思うと、怖くって仕方がなかった。片時も心の安まる時がなかった。自分は何もわるいことはしないのだけれど、今までのことが既に大きな罪になっていて、突然刑事や巡査がやって来て自分を伴れて行きはしないかとさえ疑われた。
かれは部落に一人いる巡査を怖いものに思って、その駐在所の傍は常によけるようにして通って行った。
ふと思いついた。かれは例の通り膝を拍った。晴々しい顔をして心の中で叫んだ。「そうだ。そうだ、そうしよう。あいつを持って東京へ行こう。あいつなら確かだ。確に売れる。誰も必要な重宝なものだから……。」かれは海岸の村にいる時分、一生懸命になって、ある一種の暦を発明したことを思い出したのであった。それは千年前乃至千年後の二十八宿と七曜日が数字の合せ方で間違いなく出て来るというようなものであった。それをかれはかれの不思議な数学的の頭から案出した。かれはそれを郷里出身の理学博士に送って賞讃を博した。現にその博士の手紙を勇吉は持っていた。「そうだ、それに限る。暦は安くって必要なものだから、いくらでも売れる。東京に行って、安い印刷所でこしらえれば費用だっていくらもかからない。一枚二、三十銭位で売り出せば屹度売れる。そうだ。好いことに思い附いた。」こう思って、かれは文庫の底からその暦の原稿を出して、更に博士の手紙を読みかえした。「七曜の数の出し方は確かに貴下の新研究と存候――。」こう書いてあった。今まで持っていた才能を何故今までつかわずに置いたかと勇吉は思った。限りない勇気が全身に漲って来た。神! 神が救けて呉れた! こんな風にも思って雀躍した。
Socialist としての圧迫も、東京に行けば何うにでもなると勇吉は思った。「東京は広い。身を躱して了えばわかりゃしない。巡査だって、刑事だって、そうそうはさがして歩かれやしまい。それに、東京には代用小学校がいくらでもある。教員の口だってさがせばわけはない。そうだ。そうだ。こんなところに齷齪して、雪の中に餓えて死んで了うことはない。それに限る
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